Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-36

念は、気づきの善法であり、それは我々をして、不善な法から遠ざけることができる。

実際は、仏法を知らない人であっても、善業をなすことはできるが、しかし、仏法によれば、人々は更に正確に何が善で、何が悪であるかを知ることができる。

善き法友と親しくし、仏法を聴聞し、仏法について思惟する事は、布施、持戒と止禅・観禅の修行における正念、すなわち、すべてのレベルの正念であるが、それらの育成にとって、助成し利益する所の、縁となるものである。

仏陀は、詳細に、何が善で、何が悪であるかを説明している。

我々は、仏陀の語られた事をよく考え、それらの中に含まれる意義を理解しなければならない。

その後で、我々は、自分自身で、仏陀の教えの真実性を実証することができる。

布施を忘れない念、持戒を忘れない念のほかに、心を育成することを忘れない念もある。

定力の育成または止禅は、心の育成の一種である。(心の育成をしようとする時)止禅を育成しようとする善心(に相応する)念がある。

止禅には多くのレベルがある。

ジャーナ、すなわち、安止は、高度なレベルの止禅であり、それを証得する事は、非常に難しい。

ただ、止禅の修行という善業を累積した事、及びその修行法に対する正しい見解を持った後においてのみ、人々はジャーナを証得することができる。

人によっては、ジャーナを擁してはいないけれども、日常生活の中で、静かな時間を持つことが出来ることもある。

たとえば、止禅の一つに数えられる安般念の特徴に対して正しい見解を持つならば、日常生活において、この種の素養を育成することができ、そのようであれば、安般念を縁として生じる静けさを擁することができる。

(+心に)静けさがある時、それがどのようなレベルの静けさであろうとも、静けさを目標として生じる念が存在する。それはたとえば、安般念であったり、慈愛禅であったり、仏随念であったり、またはなにか他の、止禅の念であったりしても。

仏法を研究する行為は、心の育成に含まれる。

我々が、究極法に対して、更に深く理解したいという目的のために仏法を学ぼうとするとき、その時もまた、念は存在する。

我々が、仏法を学習し思惟する時、その時は、理論的に究極法を理解する智慧(āgamasuta)が存在する。

しかし、それは、究極法の存在する今ここにおいて、直接的にそれらを了解する智慧(adigamasuta)とは異なる。

理論的な智慧は、(+対象を)直接的に透視する(=本質を直接観察して了解する)智慧(観智)を育成するための、欠くことのできない基礎である。

もし、あなたが十分な定力を擁する時、それが近行定であろうとも、または安止定であろうとも、あなたは直接(+対象を)透視することによって得られる智慧を、育成することができる。

それがすなわち、観智である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-37につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>