こういう事から、理論を談じている時、我々は究極的なレベルによって、止禅を論じる事は出来る:が、しかし、実修について語る時は、相対的なレベルで語るのが良い。
というのも、定力の育成は段階的なものであり、純粋の程度は、低いレベルから、徐々に高いレベルへと進歩していくのであるからである。
一たび入定できるようになったからといって、いきなり、百パーセント純粋な状態に、なれるわけではないのである。
仏陀の膝下にあった、神通第一の大モッガラーナ尊者でさえも、彼の入る第四禅は、100%純粋という訳でもなかったので、時たま、(+外部の)音が聞こえる事もあったのである。
こういう事からも、もし、止禅において順調に進歩したいと願うのであれば、初めは、実修については、相対的なレベルから話を始める方が、現実に見合っている。
ただ、ジャーナができるようになった後も、引き続き、止禅の修行を長年実践している、老練な修行者だけは、究極的な基準に基づいて、己ジャーナのレベルを計ることができる。
もし、修行の最初から、己自身に対して、必ずや究極のレベルでなければならないと要求するならば、それは無理な話であって、己の信心(=確信)を打ち砕き、己の進歩を阻害し、プラスの効果は決して、生じないのである。
修行者は、この点についても、上記を参考に、(+相対と究極のレベルの)話を混同させないよう、はっきりと理解するべきである。
◆結論:
(一)精通の程度から言えば、定には三種類ある。すなわち、下等、中等、上等である。
(二)安止定という語彙は、二種類のレベルに用いられる:すなわち、相対的なレベル(日常的な用法)と、究極的なレベル。
(三)相対的なレベルにおいては、純粋な安止定と、純粋でない安止定がある。
(四)究極的なレベルにおいては、安止定とは、色界心と無色心の心識刹那を指すものである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-1につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>