<Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>
鉢で食を受ける(べき)者になる
もし、人が、鉢で食を受ける者になることを思惟するなら、彼は思う:
「あれら、托鉢の食でもって私を支えてくれている人は、私の親戚でもないし、あなたの下僕でもない;彼らが私に美味しい食べ物を布施する時、彼らが、以下のように考えている訳ではない:
『未来において、我々はあなたに依存して、生活しよう』。
彼らが布施する時、彼らの為した善業によって、彼らが、大きな果報を得ることができるようにと、期待している。
また仏陀も、あなたが、必需品を用いて、ただ、身体を太らせ、生活を快適にすることを、許しはしない。
ただ、あなたがそれらを用いて、沙門としての任務を遂行し、生死輪廻を解脱することだけが、許されている。
もし、怠惰に日を送るならば、あなたは、托鉢の食を受けるに相応しくなく、ただ、精進する人のみが、托鉢の食を受け取ることができる。
ちょうど大友長老(Mahāmitta Thera)のように。」そうであれば、精進覚支は生起する。
(5-57につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>