<Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>
浄化の過程
ある種の人々にとって、行道は艱難である。
五蓋等の、敵対する状況の頑強な抵抗の為に、行道は困難になる。《清浄道論・第三章》
人々は、時々、理解できなくなる:
ある種の人々にとって、止禅の修行の進歩は非常に速く、ある種の人々は、非常に遅い事に。
正確な方法を運用する事以外に、最も重要な要因は:
ある種の煩悩が、我々に障礙を齎している、という事である。
故に、もし、我々が、真心から、本物の修行者でありたいのであれば、修行の過程の中において、己の煩悩を克服するよう、努力しなければならない。
もし、我々が、己自身の内面における劣悪な傾向を改めようとしないならば、たとえ、絶え間なく座禅・瞑想しようとも、我々は、その場所に引っかかったまま、更に一歩進んで進歩することは、できない。
定の修習の過程において、心は煩悩を、徐々に浄化することができる。
粗い煩悩から微細な煩悩まで、いくつかの段階を経て浄化され、最後に禅那(=ジャーナ)に到達する。
経典の中で、仏陀は、鍛冶屋における冶金の作業を譬えにして、定の修習の進展に伴う、各段階における浄化について、描写している。
(2-32につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>