<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
上記の経文から、我々は定の修習において、脳内に起伏する思いや考えは、粗いものから微細なものへと、変化することが分かる。
最初の段階では、非常に粗い煩悩があり、それらは身業や口業の方面で、表現されることさえある。
たとえば、五戒を犯す、などである。
もしあなたが五戒を守ることができたならば、最も粗い煩悩は調伏された、とみなしてよい。
この時、内心に去来する主要な煩悩は、五蓋である。
しかしながら、多くの初心者にとって、最も克服することが難しいのは、心内の論評である。
この種の煩悩は、「私」及び「私の」(+という概念)と関係する。
「私は修行がうまくいっているだろうか?」
「私の修行は、うまくいっていないのではないだろうか?」
「私の修行は、いつになったらうまくいくのだろうか?」
「私は一時間座禅できるようになった、すごいでしょ!」
「もし、何時の日にか阿羅漢になったならば、私はどんな感じがするでしょうか?」
「私はとても静かに座っていられるが、人々は私を評価してくれるだろうか?」
(2-36につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>