<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
しかしながら、このように修行を進めていったとして、彼らは往々にして、邪定を得ることになってしまう。
彼らが、正しい道を歩んで正定を得る前、彼らはすでに、それなりの時間を費やして、邪定を育成しており、また、いくばくかの時間を費やして、邪定を解かなければならない;
その後に、その半分の時間を使って正定とは何かを理解する為に、時間を使わなければならない;
その後に、再度時間をかけて、正定を育成する、という事になり、合計すると、多くの時間が必要になってくるのである。
(特に注意して頂きたいのは:邪定を解くのには、一定の時間が必要であるが、ある種の人々にとっては、邪定が齎す困惑を解くのは、大変に時間がかかる事である。
また、ある種の人々は、己の獲得したものが正定ではないことに、ずっと気が付くことがなく、そのため、それを訂正しようとも思わない。
この場合、彼らは一生かけても、正定を得ることはできないのである。)
己自身の、物事への実践方法を変えたいと思う人は、真正に仏陀が教えた教えを遵守して、「放下」を、己自身の修行の重点とするべきである。
このように実践すれば、彼らの修行は、絶対に非常に速く進歩し、かつ順調に進む。
彼らは、些かの時間を費やして己の性格・心理状態を修正して、正定とは何かを理解し、その後に、少しばかりの時間を使って正定を育成する。
彼らはそれほど多くない時間をもってして、正定を修習することができ、かつ心身に適切でない副作用を生じることもない。
利養(=利益を得たいと思う道)は一本の道、
涅槃の道はもう一つ別の道、
この道理を理解するならば、
仏陀の弟子である比丘は、
名望に喜楽することなかれ、
出離の修習に励むべし。
《法句経・第75偈》
(2-39につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>