<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(七)心がすでに正しい行道(進むべき道)に進んでいて、不軟弱、不動揺、不沮喪であり、かつ、禅の修行が順調に進んでいて、軽安の道に進入している時、当該の心に対して、彼は策励も、抑制もすることなく、また心をして、喜悦させることもない。
それはちょうど、馬車の御者が、順調に前に向かって走っている馬に対して、傍観し、干渉しないのと同じである。
(八)近行定または安止定に到達しておらず、かつ、心が散乱している人に近づかない、事を意味する。
(九)すでに近行定または安止定に到達した人と親しむ事。
(十)初禅またはその他のジャーナを思惟する。これらのジャーナ自体は、解脱である。
というのも、それらは、それらと対抗する法から解脱しているから。
以下のように思惟する:
「これは禅の修行である、このようにジャーナに入る、ジャーナに入る時間、定から出る時間を決意し、これはそれの不浄である、これはそれの清浄である(+と知る)。」
(十一)行(=歩く)住(=立ち止まる)、座、臥(=横になる)などの一切の姿勢と動作のうちにおいて、心をして定覚支の育成に向かわせる。
(5-67につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>