<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
これは非常に重要な点である。
ここで、ただ自ら証悟しただけでは、あなたは、よい教師にはなれない、と言っている事は、すなわち、あなたは、あなたと同じ道を歩む学生しか導けないから、というのがその理由である。
しかしながら、一人の教師が、止禅の理論を深く研究し、かつ、豊富な教学の経験を積んだ後でなら、彼は、異なる性質の学生に対して、進むべき異なる道を指し示すことができる。
故に、《清浄道論》では、「(博学の者は)業処を説明できるし、また、(+進むべき)大きな道も、指し示すことができる」というのである。
言い換えれば、教師とは、非常に、善くて巧みでなくてはならないが、では、善くて巧みとは何であるか?
善くて巧みには二つの種類がある:
1、彼の指し示す指導内容。
2、質問に対する、彼の回答と説明。
(3-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>