<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(甲)衆生に対して偏愛する人とは、己の子女など、俗世の家族を非常に愛惜する人をいう。
また、己の弟子、友人、戒師などなどを非常に愛惜する出家者も含む。
この種の出家者は、己が愛惜する人に対して、色々なことを実践する。
たとえば、剃髪、袈裟の繕い、袈裟の洗濯、袈裟の染色、鉢の乾燥などなど、である。
ほんの一時でも自分の愛惜する人を見かけないと、彼らは惑乱した鹿のように、四方八方探し回り、尋ねる:
「某沙弥は、どこにいる?」または
「某比丘はどこにいる?」
もし、誰かが彼に「その人を、私の所へよこしてもらいたい、我々が剃髪するのを手伝って欲しいのだが」と言うと、彼はそれを拒絶し、かつ以下のように言う:
「我々は彼に自分の仕事さえさせないのに、もしあなたが彼を連れて行ったならば、彼を疲れさせることになるではないか。」
(乙)「物を偏愛する人」とは、袈裟、鉢、容器、杖、棒などを非常に愛惜し、他人に少しでも触らせようとしない人を言う。
人が彼に何かを貸してほしいと頼むと、彼は以下のように言う:「己自身さえ使うのをもったいないと思っているのに、どうしてあなたに貸すことができようか?」
この、二者に執着しない人を「(+何事にも)平等に対応し、衆生にも物にも執着しない人」という。衆生と物に偏愛する人から遠く離れる事は、捨覚支を策励させることができる。
(四)捨覚支は、(+何事にも)平等に対応し、衆生にも物にも執着しない人に親しむ者に生起する。
(五)捨覚支は、行、住、坐、臥の一切の姿勢と動作において常に、心をして捨覚支を育成しようと傾向する人に生起する。
こうしたことから分かるように、これらの方法によって、これらの法を励起せしめることを通して、彼は、軽安、定と捨という、この三種類の覚支を育成する。
これが、心がコントロールされるべき時にどのようにしてコントロールするのかという(+ことの説明である)。
次に私は、「10種類の安止(+定)に関する、善くて巧みな(+方法)」に関する、「心は如何にして、策励を受けるべき時に策励を受けるか」などについて述べたい。
(5-71につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>