南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-7

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1、あなたに適合する特別の修行の道を授与する教授(+内容について)

「修行の道の教授」とは、教師が、あなたの修行が段階を追って進歩するように支援する時に、用いられ言葉である。

修行の指導は、大衆に仏法を説法するのとは、性質を異にしている。

たとえ、あなたが教える事柄が、理論的には正しいとしても、もし、学生自身の身の上に効果を生じる事がなければ、あなたが教えている内容は、契機にはなっていない。

段階的に修行の道を教授するには、ちょうど我々の教育体制と同じように、善くて巧みな方法・教えがなくてはならない。

幼稚園で、小さな子供が先生に質問をする:

「先生、私はどこからきたの?」

先生たるもの、善くて巧みに:

「あなたは、お母さんのおなかから、生まれたのだよ」と答えるであろう。

しかし、この子は、引き続きこのように訊ねる:

「どうして、私のお母さんは、赤ちゃんを産んだり、産まなかったりするの?」

このとき賢明な教師は、以下のような話をするだろう

「あなたが良い子でいたら、あなたのお母さんはとても喜んで、あなたの為に、もう一人赤ちゃんを産んでくれるよ」

しかし、多くの禅の教師は、往々にして、この種の常識を忘れてしまう。

修行の指導をする時、教師は聞く者の心霊のレベルを忘れてしまい、ただひたすら、最も究極的な観点に立って教授しようとする。

しかし、このことは、初心者にとっては、契機にはならない。

教師が与える修行の道の教授内容は、特に学生の性格と(+心の)傾向に対応し、その学生が持つ煩悩(=悩み、喜怒哀楽)を改善し、学生の潜在能力を開発するものでなければならない。

このような教授(+の方法・教授の内容)が、契機であると言える。

(3-8につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>