<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1、あなたに適合する特別の修行の道を授与する教授(+内容について)
「修行の道の教授」とは、教師が、あなたの修行が段階を追って進歩するように支援する時に、用いられ言葉である。
修行の指導は、大衆に仏法を説法するのとは、性質を異にしている。
たとえ、あなたが教える事柄が、理論的には正しいとしても、もし、学生自身の身の上に効果を生じる事がなければ、あなたが教えている内容は、契機にはなっていない。
段階的に修行の道を教授するには、ちょうど我々の教育体制と同じように、善くて巧みな方法・教えがなくてはならない。
幼稚園で、小さな子供が先生に質問をする:
「先生、私はどこからきたの?」
先生たるもの、善くて巧みに:
「あなたは、お母さんのおなかから、生まれたのだよ」と答えるであろう。
しかし、この子は、引き続きこのように訊ねる:
「どうして、私のお母さんは、赤ちゃんを産んだり、産まなかったりするの?」
このとき賢明な教師は、以下のような話をするだろう:
「あなたが良い子でいたら、あなたのお母さんはとても喜んで、あなたの為に、もう一人赤ちゃんを産んでくれるよ」
しかし、多くの禅の教師は、往々にして、この種の常識を忘れてしまう。
修行の指導をする時、教師は聞く者の心霊のレベルを忘れてしまい、ただひたすら、最も究極的な観点に立って教授しようとする。
しかし、このことは、初心者にとっては、契機にはならない。
教師が与える修行の道の教授内容は、特に学生の性格と(+心の)傾向に対応し、その学生が持つ煩悩(=悩み、喜怒哀楽)を改善し、学生の潜在能力を開発するものでなければならない。
このような教授(+の方法・教授の内容)が、契機であると言える。
(3-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
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