<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8-6-7 平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の
心で心を観ずる
彼は、如何にして、平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の心で心を観ずるのか?
修習の最中、彼の心が平静な道に進入するならば、禅の修行は順調であると言える。
たとえば、順調に、出入息または安般念似相に専注する時、その心は不軟弱、不動揺、不倦怠であり、彼は当該の心に対して、ちょうど順調に前に向かって走っている馬に対して、御者が傍観して干渉しないのと同じく、策励もしないし、抑制または激励もしない。
これが、彼が如何にして平捨の心で心を観ずるべき時に平捨の心で心を観ずるのか?(+という説明である)。
8-6-8 定の無い人から遠く離れる
「定の無い人から遠く離れる」は、出離の道を歩もうとしたことのない、多くの事に忙しく、心が散乱している人から、遠く離れる事を意味する。
8-6-9 定のある人に親しむ
「定のある人に親しむ」は、常に出離の道を歩み、すでに定を得ている人を言う。
(訳者注:平捨は中捨とも。静かな心で平等的、中立的である心境の事)
(5-73につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>