ある知り合いの fecebook をみていたら、Alan Watts という哲学者の言葉の紹介がありました:
「もしも(この世に)お金が存在しなかったら、(あなたが本当に)やりたいことはなんですか?」というのです。
私もつい、若かったころのことを思い出しました。
私は若気の至りで、結構早くに結婚してしまい、30歳くらいまでは、子育てと仕事(タイピスト)の両立で、てんやわんやの毎日でした。
そんな中、身体があまり丈夫でない事と、毎日毎日、満員電車に乗って通勤するのが苦痛だったので、もうちょっと好きな事で、身体が楽で、ペイのいい仕事はないかな、と転職を考えました。
そして、昔とった杵柄、<中国語の通訳がいいかも!>と思いついて、通訳学校に通い、晴れて通訳になりました。
これ、<天職だぁ~!>と思いましたね。
元々、私は日本語と中国語のバイリンガルだし、おしゃべりだし、フリーランサーなら好きな仕事を選べるし、企業や役所のクライアントの方々に随行して、あちこち旅行ができるし・・・実際、訪中団の随行と、インバンドの随行で、日本国内も中国も、あちこち見て歩くことができました。
でも、ふと思ったのですよね。
天職っていっても、もし、通訳の対価・報酬を貰えなくても、それでも喜んでやる?
やれる?
通訳(翻訳も)は自分にはぴったりの、やりがいのある仕事ですけれど、8時間とか、10時間とか拘束されて、一銭も報酬を貰えないなら、やっぱり、やれない。
それなら<天職>とは言えないなぁ。
お金を貰わなくても、命を懸けても、やりたいことってなんだろうか?
その時、私が心ひそかに設定した命題が、「もしもこの世にお金が存在しなかったら、それでも私がしている事、それは一体、何だろうか?」というものでした(そうと知ったら、きっと、Alan Watts も、我が意を得たり、ニンマリしてそうですね~笑)。
私はその時から、通訳をしながら(子供を育てるにはお金、いりますからね~笑)、<私の天職って何だろう>と、初心に戻って考えたものです。
今は緬甸パオ森林寺院のSayalay(尼僧)になって、これが天職だなって分かります。
生きている間に天職がみつかった、いや、天職の方から、私に手招きしてくれたみたいです。
人生は心意気でしょうか?