南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-16

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

学生

今日、学生たちが教師を探し求める時、彼らは完全無欠な教師を追い求める傾向がある。しかしながら、彼らは完全無欠な学生だけが、完全無欠な教師得る資格がある事を、どれほど理解しているだろうか?

良師を得たいと思うならば、まずは己の徳行を育成する必要がある。もし、学生の側が、よい素質を具備していないならば、たとえ完全無欠な教師が彼の目の前に現れても、彼はそれを認識することができないし、良師の教えを受けるという幸福を、享受する事はできないのである。

通常の場合、学生は教師に対する要求が多すぎる。彼らは、教師が彼らを変化させ、人としてのレベルを向上さえてもらうことに期待しているが、しかし、己自身の偏見や執着を手放そうとはしない。

彼らは、快速に成果を得ることを望むが、しかし、努力という名の代価を、払おうとはしない。

彼らは完璧な教師を得ようと希望するが、彼ら自身は、如何なものであろうか?

彼らは三宝や教師に対して、どれほどの尊敬と努力を払っているだろうか?

彼らは己の義務を、履行しているだろうか?

彼らは、教師が食べ物を選んでいるのを見る時、彼らは即刻、彼の教師も彼らと同じく好き嫌いをするのだと断定する。

このことに関して、《清浄道論》と註疏では、以下のような物語を紹介している:

大昔、ある時、一人の長老が、一人の年若い比丘と村に托鉢に行った。

最初の家まで来て、彼らは各自、一匙づつの熱いおかゆを貰った。当時、長老は胃の中の風のせいで、胃が非常に痛かったので、彼は心の中で思った:

「この粥は私にとって利益がある。私はこの粥が冷めないうちに、食べてしまおう」

居士たちは、腰掛を扉の外に出してあげ、長老は座って粥を食べた。

年若い比丘は、それを見て嫌悪した:

「この老人は飢餓に打ち負かされた。こういう風におかゆを食べるなんて、恥ずべきことではないか。」

長老は托鉢を終えて、寺院に帰ってから年若い比丘に尋ねた:

「賢者、仏陀の教法の中で、あなたは何か立脚点(殊勝な成就)を得ましたか?」

「はい、尊者。私はソータパナです」

「賢者、それならば、あなたは、これ以上、更に高い聖者を証悟する努力をする必要はない。というのも、あなたは漏尽者に対して、非常に失礼なことをしたのだから」

(3-17につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>。