<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
学生
今日、学生たちが教師を探し求める時、彼らは完全無欠な教師を追い求める傾向がある。しかしながら、彼らは完全無欠な学生だけが、完全無欠な教師得る資格がある事を、どれほど理解しているだろうか?
良師を得たいと思うならば、まずは己の徳行を育成する必要がある。もし、学生の側が、よい素質を具備していないならば、たとえ完全無欠な教師が彼の目の前に現れても、彼はそれを認識することができないし、良師の教えを受けるという幸福を、享受する事はできないのである。
通常の場合、学生は教師に対する要求が多すぎる。彼らは、教師が彼らを変化させ、人としてのレベルを向上さえてもらうことに期待しているが、しかし、己自身の偏見や執着を手放そうとはしない。
彼らは、快速に成果を得ることを望むが、しかし、努力という名の代価を、払おうとはしない。
彼らは完璧な教師を得ようと希望するが、彼ら自身は、如何なものであろうか?
彼らは三宝や教師に対して、どれほどの尊敬と努力を払っているだろうか?
彼らは己の義務を、履行しているだろうか?
彼らは、教師が食べ物を選んでいるのを見る時、彼らは即刻、彼の教師も彼らと同じく好き嫌いをするのだと断定する。
このことに関して、《清浄道論》と註疏では、以下のような物語を紹介している:
大昔、ある時、一人の長老が、一人の年若い比丘と村に托鉢に行った。
最初の家まで来て、彼らは各自、一匙づつの熱いおかゆを貰った。当時、長老は胃の中の風のせいで、胃が非常に痛かったので、彼は心の中で思った:
「この粥は私にとって利益がある。私はこの粥が冷めないうちに、食べてしまおう」
居士たちは、腰掛を扉の外に出してあげ、長老は座って粥を食べた。
年若い比丘は、それを見て嫌悪した:
「この老人は飢餓に打ち負かされた。こういう風におかゆを食べるなんて、恥ずべきことではないか。」
長老は托鉢を終えて、寺院に帰ってから年若い比丘に尋ねた:
「賢者、仏陀の教法の中で、あなたは何か立脚点(殊勝な成就)を得ましたか?」
「はい、尊者。私はソータパナです」
「賢者、それならば、あなたは、これ以上、更に高い聖者を証悟する努力をする必要はない。というのも、あなたは漏尽者に対して、非常に失礼なことをしたのだから」
(3-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>。