<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
第四章 性行と業処
性行(=性格と行い)
性行には六種類ある。
すなわち、貪行、瞋行、痴行、信行、覚行、尋行であり、簡潔に、六種類の性行と言う。
《清浄道論・第三章・第74段》
《清浄道論》の定義によると、性行とは、本性・増性と同じ意味の言葉であって、すべて、人の個性的傾向を指している。
正確に言うと、ここでいう性行とは、一人の人間が、禅の修行の上において、顕す所の、性格と行いの事である。
ある種の人々は、生まれつき読書が好きではないが、しかし、禅の修行においては、他の人に比べて、潜在能力や理解力が、豊かであることがある。
人を六種類の性行に分類することは、非常に簡便な方法である。
実際は、人々は、貪、瞋、痴、信、覚、尋の、六種類の内の、性行の幾種類かを、同時に具備していると思われる。
心理学者の研究によると、多くの人々は、多重的な性格を擁している。また、俗説では:「一種類のお米は、100種類の人を養う」と言うが、それは、このことを、上手く言い表しているのである。
世の中には、千千万万の異なる人々がいるのだから、どうして六種類の性行しかないと、言えるのだろうか?
人間は多種多様だと言うけれども、しかしまた、この六大種から離れることもない。故に、簡便的にいえば、六種類の性行がある、と言うのである。
多くの修行者は、修行する時、己がどの性行に属するかという事に、関心を寄せるのを忘れてしまう。
ある人にとっての良薬は、他人にとっては毒薬になることがある。
たとえば、現代の健康医学は、我々に生野菜を食べ、生水を飲めというが、しかし、身体が寒に傾く人、特に胃が虚である人は、この教えに盲従してはならない。
同様に、たとえば:「完全なリラックス」「決意は必要ではない」などの、禅の(+修行の上での)掛け声・秘訣は、痴行修行者には適切ではない。痴行修行者にとっては、たとえば「いつも注意を払う」「正念を保つ」などの掛け声・秘訣の方がよい。
これらの判断はすべて、修行者の性行(=性格と行い)の違いから、決定されるべきである。
(4-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>