<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(二)覚と瞋
この両者は相似ている。
双方とも、所縁に対して、不滋潤(=潤わない事、増長しない事)で、不執着であるという現象を顕す。
覚行者は、善法の中において、所縁に対し、不滋潤であり、不執着である。
瞋行者は、不善法において、所縁に対し、不滋潤であり、不執着である。
覚行者と瞋行者の違い:
覚行者
1、ただひたすら真の過失を追求する。
たとえば:ある人を、好ましく思ってはいないのではあるが、しかし、事実に基づいて、真理を検証する態度を保ち、その人が、大衆にとって、利益ある善事をなしたならば、あなたは、この善行に対して、称賛の態度を顕す。
2、諸行を回避する態度をとる。
たとえば、不利な事柄が発生した時、覚行者は、出来事は、常に順風満帆ではありえず、不利な事柄は必ずや発生すること、これは諸々の因縁の禍である事を、知っている。
瞋行者
1、真実ではない過失だけを追求する。
たとえば:ある人を好ましくないと、思っているとして、あなたは彼に対する偏見を持ち、その為に、彼が何をしても、たとえその行為が、善意からであっても、あなたはそれを、良くない行為だと言って、批判する。
2、有情を回避する態度をとる。
たとえば、不利な事柄が発生すると、瞋行者は、他人を責める。(4-9につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>