Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-21

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

慈心禅と仏随念

伝統的に、たとえば、慈心禅などの、止禅業処を修習する時、我々は、完全な禅の修習に関する教えを、応用しようとする。

この完全な、禅の修習に関する教えには、多くの要点が含まれているが、しかしながら、これらの要点は、我々が一朝一夕に理解・体得できるものではない。

初心者は、順序立てて、一つづつ段階を踏み、熟読して、思考しなければならない。システマ・チックな実修の教えと訓練の下、それぞれ異なる要点の境地を、徐々に理解・体得する(+のが望ましい)。

修行者が、五つの関門を通り、六人の将を斬ることができ、重い(+課題を含有する)境地を突破することができたならば、その時、彼は、禅の修習における、すべての要点を掌握できた、と言えるのである。

一人の修行者にとって、一文字も漏らさない(+経典の)読誦または、日々不断に何度も実践する修習は、(+本格的な修行への)非常に重要な準備作業であるが、しかし、実際の修行の道筋において最も重要なのは、法に対する直接的な理解と体験であり、我々はそれを「突破」と言う。

実際の修行は、漸進するものである。

まず先に、修行者は、ある種の重点において工夫をこらさなければならない(=時間と頭を使う、という意味)。

禅の修行が進歩するに従って、修行者は、次の重点に中点を移す事が、出来るようになる。あなたが真実、修行において、ある種のレベルまで到達することができた時に初めて、あなたは、あなたの修行があるレベル(その前までは、その方法や意義を手に取るように暗記していながら、心では直接体験できていないもの)に到達した時初めて、禅の修行の教えの、本当の意味を理解・体得する事が出来るのである。

この時、修行者は「(+自分の内部では)分かるけれども、言葉では伝えられない」という、ある種の、禅的な修行体験をする。

これはまさに「如人飲水、冷暖自知」(人の水を飲むが如く、その冷暖自ずから知る)である。

禅の修行の始まりの段階において、修行者は、禅の修行に関する秘訣をすべて、理解しようとしてはならない。それは、修行者にとって、疑いもなく、一種の、無形の、心理的負担になるが故に。

小さな「突破」を何度も重ねて(+体験した)後、それを熟成させ、それによって、最後の段階において、ある種の業処を完全に掌握するのである。

次頁において、我々はもっぱら、初心の修行者に対して書かれた,、実際の修行の教えについて、語りたいと思う。

慈心禅と仏随念の実修に関する、更に高度な教えは、中級の書籍の中で、紹介する。

 ◆結論:

(一)初心者は、段階を踏んでゆっくり漸進するのがよい。(+法に関する書物を)熟読してよく考え、システマ・チックな実修の教えと訓練の下、禅の修行において指示される所の、それぞれ要点の異なる境地について、ゆっくりと理解・体得する事。

(二)修行において、最も重要なのは、法に対する直接的な体験・体得であり、それをを越えるものはない。我々はそれを「突破」という。

(4-22につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>