過日、8月15日はお盆でした。
私は日本生まれの台湾人で、日本の風習がよく分かりませんが、私の住む Y 盆地の花火は綺麗でしたし、盆踊りは、謡われる<クドキ>に哀愁があって、よかったです。
ただ、一つ、気になる事があります。
私の住む、Y 盆地の友人の方々、口々に「お盆は、お坊さんが我が家に来るから、接待で忙しい」と言います。
なんのために来るのかと問えば、祖霊の供養の為、具体的には、お位牌に向かって、お経をあげる為、だそうです。
大昔、たとえば、江戸時代、農民は文字を学びませんでしたから、お経を読む事は出来ませんでした。難しい漢字のお経が読めるのは、僧侶か武士だけ。僧侶は、その地域のインテリだった訳です。
そして、日本(中国も?)独特の祖霊信仰と仏教のウッタラバンナー(注1)が習合・発展して、お盆には僧侶にお経をあげてもらう、のが日本人の風習になったようです。
お盆に、祖霊に対してお経を読むだけなら、自分で読んでも、いいのではないですか?
ご自分の好きなお経、意味がよく分かって、気持ちの込められる、祖霊が喜びそうなお経を選んで、ご自分で読む。
それは、お盆であるかどうかにかかわらず、日常的に、そうすることは可能です。
仏陀の教えは、僧侶の専売特許でもなければ、僧侶の<メシの種>でもないのです。
在家でも、自分でできる事は、自分でしてよいのです。
仏教は一たび、権力に取り込まれ、制度化されると、利権の巣窟となり、法事やら、葬式やら、在家が僧侶に、一方的に頼まなければならないような錯覚を起こしてしまいがちですが、そんなことはない。
在家でも、自分でできる事は、自分でやればいいのです。
仏教徒は、権威を否定し、利権を否定し、形骸化した形式を否定する、この世で、最も自由な人間なのですから。
(注1)ウッタラバンナーとは何か。
直接的な意味は、出家サンガで実践される、雨安居の最後の日の、僧侶たちの、別れの挨拶の事。
仏陀御在世の頃、雨安居の最後の日に、モッガラーナが禅定に入って、亡き母親が地獄にいるのを知った。
仏陀に報告した所、雨安居の最後の日は、托鉢に出ればご馳走を貰えるので、それを亡き母親に供養すれば、母親は地獄から出られる、と仏陀が教えました。これから、雨安居最後の日に、ウッタラバンナーの挨拶と同時に、地獄の住人に、御馳走で以て供養をする、という習慣が生まれました。ただし、祖霊信仰ではありません。
日本では、8月は農閑期で、暇があるので、祭事がしやすい。
ウッタラバンナーと日本の祭事ーー祖霊信仰が結合して、8月のお盆になった、という訳です。ウッタラバンナーの中国語訳は、盂蘭盆で、日本では<お盆>と略称し、モッガラーナとウッタラバンナーの逸話は、跡形もなく消えてしまっています。
南伝仏教では、地獄の住人を救うために供養をしますが、祖霊信仰はありませんので、祖霊にお経をあげることは、しません。