私たちには、信教の自由があります。
自分なりに色々考えて、結局、クリスチャンであることを選んだ。
イスラム教徒であることを選んだ。
マルクス主義だって、政治に傾いているとはいえ、それで人間が幸福になると信じて、熱心に活動している点においては、(心情的には)宗教とあまり変わりがない(社会主義は、ソ連も中国も失敗したので、今はすっかり色褪せてしまいましたが)。
さて、仏教。
仏教は、ゴータマ仏陀が、菩提樹の下で瞑想して深い禅定に入った時、あることに気がついた。
最初は、それを人に言うのが嫌だったけれど(誰も耳を傾けてくれそうにないから)、「一人くらいは聞いてくれるかも」と思い直して、鹿野苑で最初の説法をしたのが、そもそもの始まり。
私は仏陀の教えが好きで、タイで学び、緬甸で出家しました。その体験からいいますと、日本の仏教界って窮屈だなぁ、ということ。
一見、南伝仏教は、比丘の227戒、在家の5戒または8戒と、戒律にやかましく、厳しいように思いますが、戒律は、守った方が結局自分が楽になる、ということが分かれば、窮屈でもなんでもない。
そこで、<在家が戒を受ける>ということを例にとりましょう。
私たちは、どこかのお寺に所属して、帰依する僧侶がいなければ、在家は戒を受けられないのでしょうか?
そんなことはありません。
在家の5戒または8戒を守りたいと発心した人は、その日から、それを守ればいい、それだけですよね、違いますか?
戒を守るのに、誰かに決意を聞いてもらわねば守れない???
たとえば、あなたがカナダに住むイヌイットだとします。タイに旅行して、仏教を聞いて気に入りました。僧侶から5戒の説明を聞いて、その僧侶に「これからは5戒を守ります」とその場で誓いました。
でも、カナダに帰ったら、南伝仏教の僧侶はいません。
では、5戒を守れなかった日(嘘をついたとか、いたずらに殺生したとか)、どうするか?
自分で自分の行いを反省・懺悔し、自分で5戒の誓いを結び直せばいいのではないですか?
この場合、僧侶は必須条件でしょうか?
南伝仏教で、在家が「戒を守る」と僧侶に向かって誓うのは、家のすぐ近くにお寺があるし、満月・新月の夜にはお寺に行って、泊りがけで瞑想する習慣がある為、戒を破った時は「和尚さんに懺悔して、もう一度戒を受け直そう」と思う訳ですが、適当な僧侶がいなければ、自分でやってもいいのです。
大事なことは<戒を守ること>であって、誰に授けてもらったか、誰に対して誓ったか、ということではないのです。
他の事柄も同じです。
瞑想修行は、自分自身も瞑想に打ち込み、それなりの成果を上げた禅師・阿闍梨に指導してもらうのがいいですが(自己流で修行すると、禅病などの副作用があるため)、在家でも色々、自分でできることはあります。
人間のために宗教があるのであって、宗教のために人間があるのではない・・・。
本末転倒してはならないのです。