<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2、一人一人は、己自身が造りし業の果報の受取人であることを思惟する
我々は、悪人に対して、瞋恚と怒りの心を、生起させる必要はない。
悪人はおのずから、法律の裁きを受けるし、また、未来においては、苦痛の果報を受け取ることになるのであるから。
そして、我々もまた、己自身が造りし業の果報を受けるのである。
もし、我々が常に瞋恚し、怒るとき、未来において、我々は風貌が醜い、人から、見たくない・会いたくないと思われるような、悪報を得る。
常に、業(因)の果報の応報(=因果応報)を思惟すれば、瞋恚蓋に対処することができる。
3、常に如理作意する
我々は、常に、瞋恚と怒りを滅し除くための、道理を思惟しなければならない。
すなわち、瞋恚と怒りの禍と忍耐の功徳である。
たとえば:
瞋恚と怒りが烈火のごとくであるとき、それはただ、己自身と他人を焼き尽くすだけであって、百害あって一利無し、なのである;
忍耐は清らかな泉の如く、己自身と他人を爽やかにし、己を利益し、他人を利益する;
瞋恚と怒りは、問題の解決にならないばかりでなく、かえって問題を、複雑にするものである;
ただ平静と理智を保持するときにのみ、問題は解決する;
瞋恚と怒りは絶え間なく、我々のエネルギ―を消耗させ、急速に、人の容姿を悪化させる;
心が平静で、和気に満ちていれば、その人は青春と活力を保持できる・・・。
4、善知識と親しむ
善知識が与える、言葉による教えと、身体による教えは、我々に対して、瞋恚と怒りの害と、忍耐の長所を、教えてくれる。
我々が、瞋恚と怒りを収められない時、善知識を訊ねて語らい、彼らの意見と忠告を聞くべきである。
常日頃から、常時、善知識の教えと徳行を顧みて、また観察し、瞋恚と怒りの生起した時に、彼らの教えと徳行を思い出す事は、瞋恚と怒りを収めることができる。
◆結論:
瞋恨蓋の対処法:
1、慈心禅
2、一人一人は、己自身の造りし業の果報の受取人であることを思惟する。
3、常に、如理作意を思惟する。
4、善知識と親しむ。
5、慈心を育成し、瞋恚と怒りを滅し除くことに効果のある適切な言論(+に親しむ)。
(5-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>