<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2、瞋恚と怨恨は病の如くである
もし、胆の病を持つ人に、糖蜜または飴などを与えると、彼は食べても、味を知ることができない。
彼は、それらの味は苦いと思い、吐きだしてしまう。そして言う:
「これは苦い、これは苦い!」と。
同様に、瞋恚と恨みの心で充満している人は、慈悲ある戒師、または導師が、ただ軽く注意をしただけでも、彼は受け入れる事ができない。
彼は全力で排斥し、言う:
「あなたは私を虐める!」
そして、その後には、離れて行ってしまう(各地を遊蕩するか、または還俗する)。
それはまるで、胆の病気を持つ者が、糖蜜や飴の美味を味わえないのと同じである。
瞋恚と恨みの心に征服された人は、仏陀の教えの美味、すなわち、ジャーナの楽など等を、味わうことができない。
このように、瞋恚と恨みは、病なのである。
3、昏沈と眠気は牢獄に収容されている人の如くである
なにかの祝賀の時に、牢獄に収容されている人は、その祝賀の祝典に、最初も、中間も、最後においても、参加する事ができない。
次の日に彼が牢獄から出て来た時、人々が「ああ、我々は昨日、祝賀の祝典で、楽しく遊ぶことができた。ああ、あの美しく、妙やかな舞踏と歌声!」と讃嘆する時、彼は返事をすることができない。
どうしてか?
というのも、彼はその祝賀の祝典に参加していないのだから。
同様に、昏沈と眠気に征服された比丘は、仏法が色々な方法によって開示されている時、彼はそれの初め、中間、最後を知ることができない。
開示が終わって後、彼は他人が:「ああ、なんと佳い仏法の開示!なんと佳い弁論と比喩!」と称賛するのを耳にしても、答えることができない。
どうしてか?
というのも、彼は昏沈と眠気に征服されて、仏法の開示から利益を得ることが、できないのである。
このように、昏沈と眠気は、牢獄に閉じ込められた人と見做すのである。
4、掉挙と後悔は奴隷の如くである
奴隷は、祝賀の祝典のうちに楽しんでいても、その途中でこう言われる:
「ある事柄が発生したので、お前が行って、解決しなければならない。早くいって仕事をしろ!言うことを聞かなければ、私はお前の両手、両足、両耳または鼻を切り落とす!」
故に彼は、急いで仕事をしなければならず、祝典の初め、中間、最後を楽しくむ事ができない。
どうしてか?
というのも、彼は他人に服従しなければならないからである。
同様に、戒律に通暁しない人が森林で隠居する時、小さな罪を犯すかもしれないし、また許されている肉食(たとえば、鹿肉、羊肉)を許されていない食肉(人肉、象肉、馬肉、犬肉、蛇肉、獅子肉、虎肉、花豹肉、黒豹肉及び熊肉。比丘はこの10種類の肉を食する事は許されない)だと思うかもしれない。
その時、彼は隠居の計画を放棄しなければならず、隠居の楽しみを享受することができない。
どうしてか?
というのも、彼はすでに、掉挙と後悔によって征服されたからである。
このように、掉挙と後悔は奴隷の身であると、見做すべきである。
(5-23につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>