南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)5-22

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

2、瞋恚と怨恨は病の如くである

もし、胆の病を持つ人に、糖蜜または飴などを与えると、彼は食べても、味を知ることができない。

彼は、それらの味は苦いと思い、吐きだしてしまう。そして言う:

「これは苦い、これは苦い!」と。

同様に、瞋恚と恨みの心で充満している人は、慈悲ある戒師、または導師が、ただ軽く注意をしただけでも、彼は受け入れる事ができない。

彼は全力で排斥し、言う:

「あなたは私を虐める!」

そして、その後には、離れて行ってしまう(各地を遊蕩するか、または還俗する)。

それはまるで、胆の病気を持つ者が、糖蜜や飴の美味を味わえないのと同じである。

瞋恚と恨みの心に征服された人は、仏陀の教えの美味、すなわち、ジャーナの楽など等を、味わうことができない。

このように、瞋恚と恨みは、病なのである。

3、昏沈と眠気は牢獄に収容されている人の如くである

なにかの祝賀の時に、牢獄に収容されている人は、その祝賀の祝典に、最初も、中間も、最後においても、参加する事ができない。

次の日に彼が牢獄から出て来た時、人々が「ああ、我々は昨日、祝賀の祝典で、楽しく遊ぶことができた。ああ、あの美しく、妙やかな舞踏と歌声!」と讃嘆する時、彼は返事をすることができない。

どうしてか?

というのも、彼はその祝賀の祝典に参加していないのだから。

同様に、昏沈と眠気に征服された比丘は、仏法が色々な方法によって開示されている時、彼はそれの初め、中間、最後を知ることができない。

開示が終わって後、彼は他人が:「ああ、なんと佳い仏法の開示!なんと佳い弁論と比喩!」と称賛するのを耳にしても、答えることができない。

どうしてか?

というのも、彼は昏沈と眠気に征服されて、仏法の開示から利益を得ることが、できないのである。

このように、昏沈と眠気は、牢獄に閉じ込められた人と見做すのである。

4、掉挙と後悔は奴隷の如くである

奴隷は、祝賀の祝典のうちに楽しんでいても、その途中でこう言われる:

「ある事柄が発生したので、お前が行って、解決しなければならない。早くいって仕事をしろ!言うことを聞かなければ、私はお前の両手、両足、両耳または鼻を切り落とす!」

故に彼は、急いで仕事をしなければならず、祝典の初め、中間、最後を楽しくむ事ができない。

どうしてか?

というのも、彼は他人に服従しなければならないからである。

同様に、戒律に通暁しない人が森林で隠居する時、小さな罪を犯すかもしれないし、また許されている肉食(たとえば、鹿肉、羊肉)を許されていない食肉(人肉、象肉、馬肉、犬肉、蛇肉、獅子肉、虎肉、花豹肉、黒豹肉及び熊肉。比丘はこの10種類の肉を食する事は許されない)だと思うかもしれない。

その時、彼は隠居の計画を放棄しなければならず、隠居の楽しみを享受することができない。

どうしてか?

というのも、彼はすでに、掉挙と後悔によって征服されたからである。

このように、掉挙と後悔は奴隷の身であると、見做すべきである。

(5-23につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>