<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
このように、ジャーナと尋と伺は、相応しながら生起し、これを尋有り、伺有り、という。
それはちょうど樹木に花有り、果実有りというようなものである。
しかしながら≪分別論≫においては、この教法を終始「彼は擁している、完全にこの尋とこの伺を擁している」と形容している。
その含意は同じであることを、理解しなければならない。
喜(pīti):それは心をして清く爽やかにさせる。そうであるが故に、それは喜である。
その特徴は、目標を親しいものに変える事;
作用は、心と身において爽やかですがすがしい感じを齎すか、または喜が遍満、充満する;
今ここに起こる現象は、喜悦である。
喜には五種ある:小喜、刹那喜、継続生起喜、勇躍喜、遍満喜である。
1、小喜(khuddikā-pīti):身体の毛が(+喜びで)逆立つ。
2、刹那喜(khaṇikā-pīti):異なる時間に生起した稲妻のようである。
3、継続生起喜(okkanikā-pīti):波が海岸に打ち寄せる様に、全身において、何度も遍満する。
4、勇躍喜(ubbegā-pīti):非常に強い喜で、身体を持ち上げることができる。身体は空中に浮く。
5、遍満喜(pharaṇā-pīti):この種の喜が生起する時は、全身が遍満されて、(+尿で一杯になった)膀胱のようでもあり、また、洪水で水で一杯になった洞窟のようである。
(5-91につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点原文ママ★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>。