南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-35

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仔細観察你身語意三業、

(子細に己の身口意の三業を観察し)

言行挙止要沈穏内斂、

(言行と振る舞いは落ち着いて、内に収斂すべし)

不要説太多話、

(沈黙は金)

也不要給自己添麻煩。

(己を大切に、シンプルに生きる。)

注意自己的語言、

(話す時は細心に)

笑的時候要矜持。

(笑う時にはよく慎んで。)

ノーックラパ洞

長年修行してきて、メーチ・ケーウの禅の成果は、独特の風格と、明確な方向性を得た。

毎回の修行において、新しい心霊の領域に入る事もまた、彼女の禅修行の動力を、強めることとなった。

彼女は非常に多くの時間をかけて、他の衆生の憂い、悲しみ、苦しみと懊悩について研究したが、しかし、生死の中で、流転して止まない、彼女自身の感情の執着について、顧みて観察する事を怠った。

というのも、禅相は、心の内部の意根の接触により、内部に専注し、観照する事によって知ることができるもので、故に、彼女は禅相の観察を、心と深層心理の働きを探索する事だ、と見做した。

彼女は、禅定の時に出現する現象を観察する事によって、心と深層心理の働きの真相を、理解することが出来る、と考えた。

問題は、禅相の中の世界は、人間の世界と同じように真実であり、また、同じ程度に明確ではあるが、しかし、それは結局は、外部世界に属するものに過ぎない、という事にあった。

これらの現象に実体がなく、触ることができなくても、しかし、本質的には、心が知る所の対象であり、心以外を観照する所の法に、属しているのである。

メーチ・ケーウは、全身全霊で、これらの禅相を探索し、研究したが、それが却って、禅の修行において、彼女がただ外部にある心霊の領域にのみ専注し、己の心の中の、精彩なる内部世界に専注するのを、忘れさせてしまう事になった。

メーチ・ケーウは、修行の内において、このキーポイントである所の問題点を抉り出すことはせず、アチャン・カンパンもまた、十分な智慧が足りなかった為に、メーチ・ケーウの欠点を、指摘する事ができなかった。

もっとも、彼の修行もまた、定と神通の範疇から抜け出せておらず、その知見においても、メーチ・ケーウの禅修行の境界に対する、迷妄と執着を突破することは、不可能であった。

彼の心の内には、甚深なる定力の支えがあったが、般若の内観、すなわち、智慧の内観に欠けていて、故に、禅の修行における境界の無常・苦・無我の本質を洞察する事ができなかった。

メーチ・ケーウはアチャン・カンパンの指導力を信頼していた為、己に、真なる高明な指導者が必要である事に、気が付かなかった。

(4-36につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>