「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)4-36
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
メーチ・ケーウは、色々な心霊領域を知る事に、益々夢中になり、興奮を齎す新しい体験と、更なる広範な知識を、貪欲に追求したーーこの貪欲の汚染は、正に、衆生が輪廻に堕ちこむ心識の世界、流転して止まない原因であった。
メーチ・ケーウは、苦及び苦を作り出す真相を、いまだよく理解していなかったので、たとえアチャン・カンパンが定力を駆使しても、彼女のこの強烈な、定が重く、智慧が軽い傾向から抜け出すのを、支援することができなかった。
故に、メーチ・ケーウは、サマーディの静けさの中に耽溺し、知らず知らずの内に、感官が認識する所の、微妙なエネルギーに沈潜し惑った。
メーチ・ケーウは、1937年から 1945年まで、皐山にいたが、この期間は日本軍がタイにやって来た時期であり、タイという国を、その地域の安全が悪化する程の、衝突の中に引きこみ、第二次大戦の主要な前線における戦場となした。
戦争が勃発し、戦闘機が、彼女たちの住んでいる山の上を飛行して、爆撃の作戦を実行した。戦闘機は帰路、使い残した爆弾を、付近の山に投げ落とし、その後に初めて、近くの空軍基地に戻った。
間欠的な、耳をつんざく爆音によって、僧と尼の二衆は、がけ下に逃避したが、ただメーチ・ケーウだけは、一人泰然として、影響を受けなかったし、恐れを知らぬげに、禅の修行を続行した。
彼女は、たとえ命を投げ出す事になっても、仏法を追求したい、という願いを立てた。
彼女は、今生において、煩悩から解脱したいと願う人は、修行の途中において死ぬのならば、本望だと思わねばならない事を、知っていた。
ある時期、空爆が止まない時があった。
修行する女性たちへの影響が大き過ぎて、メーチ・ケーウとその他の何人かの尼僧は、しかたなくノーックラパ洞に引っ越した。
彼女たちは、山の中の、折れ曲がった小道を半日程、這うようにして登り、軍事的航路から遠く離れた山の中に来た。
ノーックラパ洞は、実際には、山の端に隆起した連山の中にある洞穴の群れで、ここでは、各自が、一人に一つづつ、静かな洞穴を選んで、禅の修行をすることができた。
(4-37につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>