<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
アチャン・マハブーワは、すぐに、問題の所在に気が付いた。
高明な禅師が、この種の、忘我の熱狂的行為を制止しなければ、猛進的で、強くて力のある心は、彼女をして、これらの境界に関する解釈を、誤らせることになり、最後には、迷路に嵌ってしまう。
彼は知っていた。
メーチ・ケーウのような、心の力がこれほど強い人は、一たび、どのようにして、正確に、心を修するのかを学んだならば、非常に速く、仏法の成就を得ることが、できる事を。
彼は、メーチ・ケーウは、アチャン・マンとよく似ていて、この非凡な能力を、善く巧みに熟練させて運用するならば、己自身と他者の、煩悩からの解脱の、多いなる助けに、なるであろう事を思った。
この時から、メーチ・ケーウは、よく山に登ってアチャン・マハブーワに会いに行った。
斎戒の日の夕方、アチャン・マハブーワに礼拝し、その後に、彼の、道心に関する励ましの開示を聞くために、彼女は、卉晒村の尼僧たちと一緒に、曲がりくねった山道を登った。
開示が終わると、彼は、彼女たちの、禅修行についての様子を訊ねた。
毎回、メーチ・ケーウの番になると、彼女はただひたすら、あれら超常的な体験と、自分が出会ったことのある、亡霊や神識の話ばかりした。
天界と地獄を漫遊した豊富な体験を通して、自らの目で、異なる色々な衆生を見たことから、彼女は、各種の亡霊の心境や生活の状況、それらがそこに生まれざるを得なかった業などについて、詳しく述べたてた。
非常に明らかに、メーチ・ケーウは、これら異界と特殊な知識の中に耽溺しており、アチャン・マハブーワは、心配になった。
彼は、彼女の神通の能力に驚くと共に、しかし同時に、彼女は、いまだ己の心を御する能力に欠けており、禅の修行において、副作用・傷害が出ないという保証は、なかった。
彼は彼女に、安定的に、己自身の心身に専注することを学ぶべきで、外部世界の境界に、注意を払ってはならないと、警告した。
ただ、覚知を、己の内部に、安定的に専注させる時にのみ、煩悩の障礙を解消する事ができ、その時初めて、禅の修行は、更に一歩、前進することができる。
アチャン・マハブーワは、彼女に、禅修行の最初の目標は、正しい定を育成する事だ、と教えた。
彼女は、禅修行の時、知覚的な念ーー想いとイメージの中に入り込み、それらの内容に専注する事が、習慣になってしまっていた。
この行為は、彼女の心に限界を齎した。
正しく定を修習する為には、彼女は、これらの愚かな迷いを捨てなければならず、二度と、想いとイメージに専注しないようにして、受け入れる必要のない限界から、脱皮しなければならなかった。
正確な禅修行を通して、心の能知(=知る能力)の本質を直接体験することによって、彼女は、心身の現象を、客観的に点検するができる。
心の能知の核心は、イメージや考えや感受を認知したりするより尚、広大な覚知であり、それは一つの、障礙のない内部空間であり、一切を包摂していながら、しかし、また何者をも、留保しなかった。
この心霊の覚醒の力は、ひとたび育成することが出来たならば、何度も繰り返して復活し、無限に深化することができた。
この関門を突破する前、分心して、外部を専注することは、修行者の、禅修行の最初の目標:覚知の根源に至る事ーーに到達するのを、妨げる。
出会って初めの頃、アチャン・マハブーワは、静かに、メーチ・ケーウの述べる神秘で奇怪な体験を聞きながら、細心の注意を払って、彼女の心のエネルギーのレベルを推し量り、その後に、穏やかに、彼女に、知覚の意識流を、己の内部の根源に向かわせるように、と言った。
彼は、再度、意識は心の作用であり、心の本性ではない事、彼女は、必ず、意識と、意識が齎す有限の知覚を捨てて、心をして、真正なる本性を輝かせしめなければならない、と重ねて言った。
(5-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>