Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-18

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

想いを止めるのには、二種類の、主要な目的がある:

一番目は、一個の空間を作り出し、コントロールを受けない、慣性的・習慣的な想いと、主体的で、専注された想いとを、区別・識別し、想いの性質を、はっきり見極める事である;

二番目は、一個の空間を明け渡し、(+心の)直観的な内観によって、(+心に)意識活動を行わせる事である;

この二者は共に、智慧にとって、多少とも、欠ける事のできないものである。

正確な修行を通して、定は、一時的に思想(=思いを巡らす事)を止めることができるが、その時、理知を歪める事はない。

定は、禅者に主体的に思想する事(=考える事)を保証するが、考えをコントロールできないまま考える、というような事は、しない。

心がこのように運用される時、思想(=考え、想い)は、一つの広い空間を広げ、執着のないまま、明晰に思考し、観察する事ができる。

直接的な洞察力は、一目で、一連の念頭(=想い、発想)が、どの方向へ向かおうとしているかを、判断する事ができる。

禅者は、執着から離れる事と、直観的な内観でもって、無用の念頭(=想い、発想)を手放し、有用なものを、手にする事ができる。

このように実践する事は、般若(=仏法の智慧)にとって、一つの堅固な基礎を、打ち立てる事を、意味する。

我々の心が、いまだ甚だ深い静けさに到達していないのであれば、しっかりと思想(=思考)することは出来ない。

というのも、意識によって駆動され、引き起こされた思想(=想い)は、妄想であり、(+己にとって)必要な思想(=考え)では、ありえない。

この概念化された思想(=思考)から得られた知識は、浅薄なものであり、頼りにならないものであり、真の智慧による、根本的な内観に欠けるものである。

(訳者注:この段落には<思想><念頭>という言葉が幾つも出てきますが、それぞれ、文脈によって、動詞であったり、名詞であったり、その内包する意味が違ってきますので、翻訳する時に注意が必要でした。

後日、誤訳・誤字・脱字を指摘されて、校閲する必要が生じた時に混乱しないよう、<思想><念頭>の訳文の形式を「思想(=〇〇)」「念頭(=〇〇)」としました。読みにくいかと思いますが、ご理解の程、よろしくお願いいたします。)

(5-19につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>