南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-20

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心専注仏法、

(心が仏法に専注する時)

初歩的内観是看到執着色身体引起的苦。

(その初歩的な内観は、身体に執着する事によって

引き起こされる苦を、見る事である。)

那些看清楚色身的人、

(身体の本質によく気が付く人は)

通常很快証悟仏法。

(通常、非常に速く仏法を悟る。)

内にある死体

夕方、メーチ・ケーウは、歩いて女性専門道場に帰った。

彼女の心は軽く、元気で、生き生きとしていた。

茅葺小屋に戻ると、彼女は以前と同じように、座禅をし、己の修行について、全面的な探索をした。

メーチ・ケーウから言えば、サマーディに証入するのは、難しい事ではない。というのも、彼女の心は、生まれながらに、容易に、一境に凝集することができたから。

凝集して散らない心だけが、近行定を証得する事ができ、その近行定が、彼女をして容易に、多種多様な心霊のエネルギーの領域に出入りする事を可能にさせた。

この過程において、意識を、自然に、中心点に凝集するならば、心の本性に接触する事ができる。

しかし、それは一時的な短い時間の接触であって、そこからすぐさま退出すると、それは、それ自身の、正常な動態に戻った。

この心性における、短い時間の体験は、その後に、意識が認知する所の知識に対して、一種の間違った自信を齎することがある。

メーチ・ケーウは、安定した静かな心を、変化する心境を点検することに使わず、却って、心の活動的な画面を受動的に見て、思考と想像の機能をもって、これらの画面の意義について推測した。

その為、彼女は、心性の汚染のない覚知との触れ合いを失ってしまった。

これら概念化された思考から得られた結論は、浅くまた、自我を持ち(=己のものだと思いなし)、意識の中の汚染は、彼女の認知に対して、感情的な固執を擁し、彼女を誤った方向へ導き、彼女をして、真正の理解から離れさせた。

彼女の意識心は、己がいつも作り出している幻像に、過度に介入するようになり、心性において、独立的に存在するかの様相を見せた。

(5-21につづく)

ー(<菩提樹文庫>にナンバリングの誤記をご連絡頂いた方、感謝です)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>