Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-30(185/244)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

メーチ・ケーウの観身の修行は、非常に重要な段階に、差し掛かった。

この折り返し点において、心が色身に執着する、その根本的原因は、非常にはっきりとしていた。

嫌悪の本能の感受が、それとの根源において合一すると、一つの深い覚醒が、突如として、生起した:

心は、己自身で、嫌悪と好ましさという感受を、製造する。

心は、己自身で、醜いか、美しいかの見方を、製造する。

これらの属性は、真実に、認識の対象の中に存在している訳ではなく、心が、映像の上に、これらの属性を投影し、その後に、己自身を騙して、己自身に、それらの美醜、好ましいか、好ましくないかを、信じさせているのであった。

実際、意識流は、恒常、映像と、それによって生起された、感情的な妄想の上に、沈潜している。

人の心は、四六時中、図像を描写しているーー己自身の図像と、外部世界の図像とをーーそして、その後に、己の幻想の中に落ち込み、それらを真実であると思い込むのであった。

修行がこの段階まで来ると、心の本性の、あの無量で、虚空のような覚知と精緻な洞察力は、同時に運用された。

映像が凝集された所の幻像は、徐々に、粉砕され始めた。

意識流の内部の、各種各様の、乱雑な形象と断片は、浮上してきて、映像として凝集し、次に、即刻、粉砕された。

その後に、また、凝集し、粉砕され、かくの如くに、循環し、それを繰り返した。

身体の影像は、浮かび上がるや否や、すぐに滅し去った。

どのような欲望であっても、または見方であっても、完全に形成される前に、覚知の根源は、すでに、映像を覆い、それをして、虚空に返し、その後に消滅せしめた。

心身は、陸続として、己の好みであるように思える各種の方式で、己自身を顕現したが、しかし、そのすべては、一つまた一つ、空(=からっぽの場所)の中に溶融して、消えて行った。

身体の慣性・習慣的概念は、形象として顕現する。それは、それら各々の特徴を顕示する為であるが、しかし、それらは、心内において、明確に形成される前に、能知の核心は、それらすべてを、溶解させた。

(5-31につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>