<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
メーチ・ケーウの禅修行は、無量劫より生死輪廻を支配して来た、心理上のパターンを打ち壊した。
この時、何ら一つの念頭(=想い、発想)さえも飛び出して来る事はなく、またそれが、形成される事もなかった。
このことは、自在に運用できる覚知が、真正に、生起した事を意味した。
心が、造作する事のないまま観察するという事、それは、純粋で清らかな、汚染のない覚照であり、自然に、清らかで明晰な洞察を伴う、内観を誘発した。
心が、直接知覚による智慧によって、心理的現象の中には自我(=エゴ)がない、という事をはっきりと理解した時、執着を離れる所の解脱が、自然に発生した。
心の専注する範囲が、一点に集中すればするほど、外に向かう心の流れは、益々短くなり、局部的な制限を受けた。
メーチ・ケーウは、概念的な現象に関して、これほど徹底的に観察したが故に、光明の核心は、もはや、これらの現象を覚知しようとはせず、心内の念頭(=思い)と想像は、完全に停止して、心の能知(=知るもの)の本性だけが、突出して顕現した。
この時、一つの極めて精緻な覚知ーー宇宙全体を覆い尽くす覚知ーー以外に、その他のものは、決して、顕現する事は、なかった。
心は、時間と空間の限界を超越し、発光する存在の核心は、まるで際限がないが如くに、微妙で空無(=何一つない事)で、宇宙のすべてに満ち満ちていた。
一切は、覚知の微細な特質に満たされ、これ以外のものは、まったく存在しないかの如くであった。
彼女は、万象を網羅する核心の障礙と、遮蔽物を綺麗に取り除いたため、心の真正な力が、顕現したのであった。
無明の枝葉が、すべて切り落とされたその後、メーチ・ケーウの心は、一つの微細な光明の核心となって一点に集中したーーそれは、かくも壮大で、彼女を魅了し、これこそが、己が身を惜しまずに追求してきた、一切の苦の果てる所だ、と思った。
自我(=己のもの)と認定する所の、すべての執着の要素を捨てて、微細な光明が、心の中心で光を放ったが、それは、彼女が専注する所の、唯一の対象となった。
この覚知の専注する一点は、それほど微妙で精緻であり、形容しがたく、それは、今まで経験した事のない、微妙な楽しさを発散し、まるで有為の現象全体を、超越するかの如くであった。
この一粒の光明心は、一種の、堅固で壊す事の出来ない感覚を発し、まるで、どのようなものをもってしても、それに影響を与える事は出来ないかのようであった。
メーチ・ケーウは、今、確信した。
彼女は、最終の目標ーー涅槃にやってきたのだと。
(5-34につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>