<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
”試しに想像してみて欲しいのだが、あなたが、空っぽの部屋の中にいるとして、あなたは、周囲を見まわして、空っぽで、なにも無い・・・絶対に、何等のものも、空間を占拠していない、と言うーーその部屋の真ん中に立っている、あなたを除いては。
あなたは、この部屋が空っぽである事を讃嘆するが、己自身を忘れている。
あなたは、己自身が、部屋の空間の中央を占拠している事を忘れているのだが、それでどうして、部屋が空っぽだと言える?
人が中にいるかぎり、部屋は、真正なる空(くう)である、とは言えない。最終的に、あなたがこの部屋から離れなければ、部屋は決して、真正なる空には、ならないという事に目覚めた時、その時、真我無明は崩壊して、汚染の無い、清浄心が生起する。
”ひとたび、心が一切の現象を手放す時、それは最高度の空に変化するが、しかし、あの、空を讃嘆する人、空を畏敬する人は、依然として存在する。
この時、根拠地としての自我(=エゴ、己自身)ーー一切の誤った知見の根本ーーは、依然として、心の能知の核心の中に、融合している。
我見は根本無明であり、その存在は、光明心の微細空と、汚染の無い清浄心の真空の、両者の間の違いを、表している。
自我は、真の障礙であり、ひとたび、自我が崩壊して消失したならば、全く、障礙は余す所なく無くなり、その時、真空が出現する。
それはちょうど、あの空っぽの部屋にいた人間が、唯一、己自身が、そこから永遠に離れた時のように、そのような時に初めて、我々は、心が徹底的に空になった、と言えるのである。
真正なる空は、徹底的に、また永遠に、束縛から離れているものであって、何らかの努力をして、維持するものではない。
”無明とは、本質的に、盲目的な知覚であって、それは、光明、透明性と楽しさを偽装する。
故に、無明は、自我にとっての、最後の避難港である。
これら愛惜される心行は、依然として、微細な因縁によって生じるものであって、唯一、一切の有為法の痕跡が消え去った時、初めて、真空が出現する。
”あなたがよく考えて、ひとたび、それの真正なる様相を知る時、誤った覚知は、その時、分解される。この光明の幻像は、光芒でもって、あなたの知見を覆い隠し、心の真正なる、本来の不可思議を瞞着するのである。”
(5-39につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>