<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<メーチ・ケーウ法話集>
我々は、生まれてはまた死に、
死んでは、また生まれ、
生、老、死が、輪転して止まない。
我々仏弟子たるもの、決して、
己自身の真実に関して、
何一つ知らないまま、
命朽ち果てるなどということが
あってはならない。
死がやって来たとき、
よりよく死ぬこと、
清らかに死ぬこと。
心身に対して、
毛一筋程の気がかりも残さないこと。
全き放下をして、自在に死ぬこと、
法の本性を証悟して後に死ぬこと、
仏陀の足跡を追うこと、
如々に死ぬこと、
”不死”の界に入ること、
これらができなければならない。
ある人がアチャン・マンに聞きました:
”森林の禅僧は、どんな本を読むのですか?”
彼は答える:
”まず、目を閉じて、精神を奮い立たせて、
それから読み始める。”
”私は、朝早く目が覚めたなら、
目は、色相の爆撃を受けるので、
私は、目と色相の接触を観察する。
私の耳は、音と接触し、
私の鼻は、匂いと接触し、
私の舌は、味と接触し、
身体は、冷熱・硬軟と接触し、
心は、念頭(=想い)と感情に接触する;
すべての根門は、
外塵に触れて、爆撃されるので、
私は、これらのものを、観察し続ける。
このようであるから、
私の根門の一つ一つは、
皆、私の教師と化す。
私は毎日、一刻も休まず仏法を
学んでいるが、ただ、己が、
どの根門を選んで専注するかによって
(+内容が変わる)。
私は専注する時、
その内にある実相を
徹底的に知るよう、努力する。"
これが、アチャン・マンが私に教えた、禅の修行方法である。
(7-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>