<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
戒・定・慧が合わさって、八聖道になる。
では、戒・定・慧とは、何であるか?
我々は、先に持戒が清浄のレベルになって後に初めて、定と慧を体験・証悟する事ができるのであろうか?
八聖道の中の戒・定・慧は、同時に一緒に修するのであって、一回につき、一種類を修する訳ではない。
たとえば、三種類の成分を含む丸薬があるとして:
我々は、一回で、全部飲み込んでしまう。
定の修習は、平静で、喜悦であるーー特に、専注(深い定)に到達した人にとっては、定は非常に快楽(=楽しい、楽)である。
そうであるならば、なぜ我々は、唯一、涅槃だけが楽であると言うのであろうか?
定の修習は善法である。
定は煩悩(蓋)を降伏することができるが故に。
しかし、それは暫定的な平静で、ただ五蓋が(+一時的に)制圧せられて、定の状態を維持できているだけであって、また、快楽の程度も、禅定の深さ、浅さによって決定される。
しかも、この種の禅定の楽は、いまだ苦楽の輪廻の中にある。
(1-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>