パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-113
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
無尋無伺:
修習を通して、捨離をした為に、このジャーナには、尋がない。この種の解釈は、伺にも適用する事ができる。
《分別論》も、以下のように言う:
「故に、この尋と、この伺は、すでに平静にされ、平静になり、止息しており、平息しており、完全に平息しており、除去されており、完全に除去されており、乾いており、完全に乾いており、終わっている;
故に:無尋であり、無伺である、と言う。」
定から生まれる:
その意味は、初禅定、または相応の定から生じる、という事である。
初禅もまた、相応の定によって、生じるのではあるが、しかし、この定だけが「定」と呼ばれる。故に、それは完全に自信があり、また、尋と伺の干渉を受けない為に、極めて動揺し難い。
故に、ただこのジャーナのみを「定より生じる」と言う。このような言い方は、それを育成する事を勧めるためである。
(5-114につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>