パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-116
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
喜が消失:
この二種類の意味を理解する必要がある;
すなわち
(一)尋と伺が止息した;
(二)尋と伺が止息し、喜も超越した。
当然、第二禅の中において、尋と伺は、止息される。
しかしながら、このように言うのは、(+修行者を)第三禅の道へと導く為であり、また、それを[育成]する事を勧める為でもある。
「尋と伺を止息する」と言うと、それは、尋と伺を止息させて後に、このジャーナの道に[入る]必要性があるのだ、という事を示している。
また以下の事実を、記憶しておいてもらいたい:
「第三禅の近行定は、尋伺と相応するだけでなく、喜とも相応する。ただ第三禅の安止のみが、この三支を捨離する。」
上記のことが原因で、上述のように、解説する事が必須であった。
比丘は捨において安住する:
捨とは、如実に、禅の修行の目標を観察する事である。たとえば、安般似相等。
このように、それは捨(upekkhāまたは傍観)である。
その意味は、先入観なしに、それを公平に見る事。第三禅を証得した者は、「捨において安住する」と呼ばれる。というのも、彼は清らかで明晰、十分で、良好な捨を、擁しているからである。
(5-117につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>