南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」1-53

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

1-6 <今・ここ>と実相

<今・ここ>は、以下のように定義する事ができる:

1)心・身の実相が顕現し、かつ、我々の貪欲とは相応しない、暫くの時間。

2)三心(明覚):すなわち、精進、正念、正知でもって心・身を観照すること。

もし、あなたが<今・ここ>を体験・証悟したいのであれば、

a)三心の所縁は、実相(非男、非女、無我)である必要があるが、それは、心身を所縁とする事を意味している。

b)四組の念処を所縁としなければならない。異なる所縁を混同させて、修行してはならない。たとえば、座っている色身を観照する時、もし、色身が痛くなり始めるとして、心が痛みを知っている事を観照し始める、という事をしてはならない。

座っている色身が痛い(+のを知っていれば)それでよい。

「身念処を修する時、色身だけを観照する」

c)三心でもって所縁を観照しなければならない(精進、正念、正知)。

d)<今・ここ>を保持する時にのみ、心身を見る事ができる:

そして、心が貪欲と相応しない時にだけ、身・心は顕現する。

故に、我々は、<今・ここ>を創造してはならず、<今・ここ>の状況を、創造してはならない。

例えば:更に観照を容易にする為に、ゆっくり歩いたりする事。または、身・心の生・滅現象を見たいがために、手をゆっくりと移動させるなど、これらは皆、<今・ここ>ではない。

e)真実の<今・ここ>の例とは、以下の通りである:

例えば、(+修行者は)座っている色身を覚照(正念、正知)しているが、しかし、心の中には多少の煩悩があるかもしれない。または、座っている色身を見たいという貪欲が隠れているかも知れない。その時、一瞬の雷の音で、注意力が座っている色身の観照から、雷の音に移る時、非常に自然に、また即刻、心が聞いている、という事を知る。

これが、<今・ここ>(慧の<今・ここ>の修行)である。というのも、その一刹那において、心は煩悩と相応していないが故に。

(1-54につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>