是誰庵のひとやすみ~黄梅が熟した
中国は、魏や唐の時代、禅宗が勃興しました。
多くの人が、禅寺の門を叩き、禅の修行をしました。
それまでの中国仏教は、理論を勉強し(主に華厳経)、その会得した知識を競うものであったのですが、(達磨禅師のご努力により)仏法とは、修行して悟りを得るものだという認識に変化したのです。
素質よろしく、先に悟った者は、禅寺を開き、住職になりました。
弟子が続々とやってきましたが、弟子が優れていて、己が教えきれないと思ったなら、他のお寺に移って行くのを奨励しました。
決して、弟子を抱え込み、その数を競うような事はありませんでした。
お寺で修行しても悟れなかった某僧侶は、諦めて実家のある黄梅山に帰り、そこで悟りを得ました(悟りたい、悟りたいと意気込めば意気込む程、悟れないというバラドクス)。
そこで、元の師匠は「黄梅が熟した。あっぱれである」と褒めています。
師匠は弟子を囲い込むのをやめて、弟子は自立を目指す。これが健全な師弟関係です。