<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
三番目――潜在的な煩悩(漏):
これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。
唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。
もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一、第二の煩悩もたま断じ除かれる。
煩悩の生起する所において、煩悩を、断じ除かねばならない。
例えば、我々が、痛みを(+痛いと)妄執する時、「私は痛いのだ」と妄執するーーしかし、痛いのは色身なのである。
故に、我々は色身の苦を観照するという方法でもって、色身において、邪見を断じ除くのである。
見る事、聞く事を、心の作用であると見做さなければならない。というのも、我々は非常に安易に「私が」見ている、「私が」聞いている、と妄執するからである。
このようであるから、我々は、我々の心の中で、この種の煩悩(邪見)を断じ除かねばならない。
「心が見ている」、「心が聞いている」は実相であるーー物事の本来の面目または自然な真実の状態として、それらーー実相ーーを見る事。
この種の修法において、修行者の任務とは、執着と嫌悪(貪と瞋)を断じ除く事である。
ある種の修法に、「座りつつ」、(+座る事によって生じた)痛みが無くなるまで「(+痛みを)超越せよ」というのがある;
この種の修法は執着を生み、また、我々に「我有り」という妄執、または(+痛み・現象を)主宰できるという誤った観念を齎す。
というのも、我々は座りながら、痛みを超越する事ができるし、また痛みを消す事もできるが故に。
(1-65につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>