<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできないのであれば、(+修行者に)怒りの心が起こる。
妄想は、我々に対して、心はコントロールできないものーー無我であると、啓示してくれる。
妄想するのは心であり、すなわちそれは、「私」が妄想しているのではなくて、心(心王)が妄想しているのである。
観禅(=vipassana)の時に出現する幻像とか符号、諸々の閃光、幻覚なども、一種の煩悩であり、それらはあなたを<今・ここ>から乖離させる事がある。
それらは、vipassana の所縁ではなく、また、それはすでにあなたが定から離れている事を、暗示しているのである。
同様に、軽安と快適な感覚もまた、定から離れいている現象である。
歩くか、又は運動するのは、定からの乖離する現象を減らすよい方法である。
もし、修行者が、サマタを修行するならば、煩悩の特徴を見る事はできない。というのも、サマタは、ただ貪と瞋だけを、降伏することができるが故に。
修行(+の方法)を間違う、その動機は、一種の煩悩である可能性がある。もし、一人の修行者が、苦を滅し、生死を了したい(=生死輪廻を終わりにしたい)のであれば、この種の動機は正しいものである。
しかし、もし、一人の修行者が、その他の理由、例えば、何かに成功したい、成就したいと思うのであれば、それは煩悩である。
もし、一人の人間が、忍耐強く禅定ーーこれは一種の善法ではあるがーーを修習したとしても、苦を滅することは、できないのである。
(1-66につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>