私たちは、仏法を学び、実践するのに、何が必要でしょうか?
タイや緬甸(ミャンマー)の僧侶の像などを見ると、ゴータマ仏陀が着用されたのとほぼ同じと思われる黄衣を着て、肩から托鉢用の鉢を掛け、手には傘を持っています。
傘は、野宿する時に、広げて木の枝にぶら下げ、簡単な屋根のようにして使います(傘の周囲に、蚊帳を垂らすこともできます)。
彼らは身一つで、立っています。
彼らが、アビダンマの本を脇に抱えている像など、寡聞にしてみた事がありません。
本の中に書いていあるダンマは、死んだ知識です。一応参考にはなりますが、あなたの心の煩悩と、直接関係はありません。
私の吝嗇、私の強欲、私の恐怖を、パーリ語で置き換えてみても、私の中の吝嗇も強欲も恐怖も、無くなりはしません。
それよりも、変容する事です。
吝嗇な者は吝嗇でない者に、強欲な者は強欲でない者に、恐怖する者は恐怖しない者に、なればよいのです。
我々は、仏法の理論を学び、理論に納得してから、変容する訳ではありません。
変容は<今・ここ>において、刹那に生起します。
己の変容を受け止めてくれる己自身がいれば、それで十分です。
自分の外(そと)に、教師はいりません。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>