<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
身体の無常は、思慧で体験・会得できる。
しかし、心の無常は、(+身体より)更に微細なため、体験・会得しにくい。
姿勢を変える時、例えば、座っている色身から、立っている色身に変る時、我々は座っている色身は無常である事を体験・会得する事ができる。
これがなぜ、鈍慧の修行者は、身念処を修行しなければならないか、という理由である。
2)姿勢を覚照しない。
身体における姿勢を覚照しないなら、我々は色身が苦である事を認識することができない。
苦とは、同じ状態を保てない事を言う。(これは実相である:自然なる真実の状態で、我々にはその真実を変える事はできない)。
姿勢を変える時、苦苦は、古い姿勢の中に早くから存在していているが、しかし「如理作意」に欠ける状態のまま、古い姿勢を観照する時、明覚は作用を引き起こす事ができず、苦苦もまた察知する事ができない。
(1-75につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>