我々仏道の修行をする者の内に、自分の指導者から「よし、それでこそ私の弟子だ」「私が印可・印証しよう」と言われるのを喜ぶ人が、一部において存在するようだ
通常、禅の指導者は印可・印証はしない。
パオ・セヤドーもしないし(「<菩提樹文庫>収録「パオ・セヤドー問答集」参照の事)、孫倫(sunlun)セヤドーも、しない。
孫倫セヤドーは著書の中で、こう言っている。
「ある種の禅の修行者は、一つか二つの証悟の段階を登った旨を、自認する事をことさら好む。
心にそのような考えが浮かぶと、己の考えが正しいことを証明してもらおうと、考え始める。
彼の指導者である所の禅師が、間接的に忍耐強く、彼の間違いを指摘するというその事自体が、すでに、一種取り返しのつかない事態ではある。
私、孫倫セヤドーは、これまで一度も他人の為に、印可・印証した事はない。
もし修行者が、己がすでに、これこれの段階まで修行が進んだ、と言うのならば、私はただ一言『あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょう』と言うのみである。
どのような状況であっても真正の証悟は、誰かに印可・印証してもらう必要は無い。
修行者は己自身で分かるからである。
同様に、証悟したという錯覚に関しても、ことさら他人に知らせる必要は無い。禅者は己自身でこれ(=錯覚)を発見する事ができる。」
(「正念与洞察智慧的培育」ー孫倫禅師著ーp131より抜粋・翻訳)
世の中には、己一人で学び、己一人で悟る人はいる。そういう人は法脈など誇らない。法脈がどうの、衣鉢がどうのと言う修行者は、まだまだ修行が足りないようだ(笑)