南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~印可・印証は必要か?

我々仏道の修行をする者の内に、自分の指導者から「よし、それでこそ私の弟子だ」「私が印可・印証しよう」と言われるのを喜ぶ人が、一部において存在するようだ

(中国禅宗慧能禅師の衣鉢伝承物語の影響か?)。

通常、禅の指導者は印可・印証はしない。

パオ・セヤドーもしないし(「<菩提樹文庫>収録「パオ・セヤドー問答集」参照の事)、孫倫(sunlun)セヤドーも、しない。

孫倫セヤドーは著書の中で、こう言っている。

「ある種の禅の修行者は、一つか二つの証悟の段階を登った旨を、自認する事をことさら好む。

心にそのような考えが浮かぶと、己の考えが正しいことを証明してもらおうと、考え始める。

彼の指導者である所の禅師が、間接的に忍耐強く、彼の間違いを指摘するというその事自体が、すでに、一種取り返しのつかない事態ではある。

私、孫倫セヤドーは、これまで一度も他人の為に、印可・印証した事はない。

もし修行者が、己がすでに、これこれの段階まで修行が進んだ、と言うのならば、私はただ一言『あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょう』と言うのみである。

どのような状況であっても真正の証悟は、誰かに印可・印証してもらう必要は無い。

修行者は己自身で分かるからである。

同様に、証悟したという錯覚に関しても、ことさら他人に知らせる必要は無い。禅者は己自身でこれ(=錯覚)を発見する事ができる。」

      (「正念与洞察智慧的培育」ー孫倫禅師著ーp131より抜粋・翻訳)

世の中には、己一人で学び、己一人で悟る人はいる。そういう人は法脈など誇らない。法脈がどうの、衣鉢がどうのと言う修行者は、まだまだ修行が足りないようだ(笑)

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>