<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
明覚(=明瞭な覚醒心)でもって、各種の姿勢を継続して観照する時、如理作意でもって煩悩を防止して、内心に好き、嫌い(+の感情)を生起せしめないようにしなければならない。
このようにして初めて、修行者は一種類づつの、前の姿勢の中の苦苦を見る事ができるようになる。
こうすることによって、新しい姿勢もまた、苦の真相を隠蔽する事ができなくなるのである。
例えば:
座っている色身が痛い時、もし「如理作意」がないならば、我々は、「我々が」苦なのであると思い、嫌悪の感受を生じせしめる。
そして、その後に、明覚でもって観照できないが故に、再び嫌悪の心を生じせしめるーー前の姿勢を好まない、という嫌悪を。
もし、修行者が自分で立ちたいと思って立つならば、新しい姿勢に貪愛の心を生じせしめる。
というのも、新しい姿勢は、前の姿勢の苦を隠蔽しているからで、その為、前の姿勢の中から苦苦を体得・会得する事ができないのである。
(以上は、なぜ身体の姿勢を覚照しないならば、苦を隠蔽する事になるのかという、一つの例を解説したものである。)
(1-76につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>