是誰庵のひとやすみ~仏教は心の中に
私はチャキチャキの、南伝の仏教徒です。
遠く緬甸(ミャンマー)に行って、パオ僧院で出家までしちゃいました(笑)。
今は、九州の片田舎に住んでいますが、頼まれてダンマ・トークをする事があります。
お布施を頂いた時は、
Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu
(皆様のこの功徳が涅槃の助縁となりますように)と
Mama puññabhāgaṃ sabbasattāna bhājemi
(この功徳が、すべての有情に分け与えられますように)
を唱えますが、授業の始まりに、Namo tassa
も、三帰依文も、唱えません。
それは何故かと言いますと、皆々様には、仏教に疑問を持って、接して欲しいからなのです(宗教団体の雰囲気に飲まれて、洗脳されて、yesマンになるのが、一番危険なのです。)
仏法は甚だ深遠です。
ゴータマ仏陀ご自身が、ご自身の悟った内容が、余りに微細で、人間の想像を超えている為、説法したくない、と思ったくらい、深遠なのです。
ですから、誰もいきなり仏陀、ダンマ、サンガに帰依できる訳がありません。
仏教を学んでみて、もし、納得できなかったら、いつでも逃げよう(笑)・・・というくらいの方が、健康的というものです。
私は、クリスチャンが、興味本位で聞きに来てもOKです(議論の為の議論は、ご遠慮頂きますが)。
輪廻は本当にあるのか?などという素朴な質問も、大歓迎です。
一生を左右するほどの深い信教は、己の全人格をかけて、探求するものです。
私も、修行の為、タイのお寺に滞在していながら、(偶像崇拝みたいで)仏像に礼拝できない時期がありましたし、師に三拝できない反抗期(?)もありました(理論的には、師にではなく、サンガに三拝するのですが、現実的には、目の前にいる師に三拝するので)。
故に私は、誰にも、三帰依など強要しないのです。
私の生徒さんなら、三帰依は、仏法を本当に理解し、納得できた時に、心の中で行って頂ければ、それで十分なのです(今翻訳している「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」も、自立・自律の為に使って頂ければ、幸甚です)。