「身念処」1-80
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
修行においては、堅実を(+虚構と)見破らなければならないが、そのためには、身・心を観照しなければならない(身・心の識別のために、特殊なチャレンジをする必要は無い)。
修行者は「座っている色身を知っている心」と「立っている色身を知っている心」は、それぞれ異なっているものである事を、理解しなければならない;
その上、座っている色身と、立っている色身も異なっているのである。
故に、普通の方式で修行しなければならないが、それは、堅実(+という誤解)が生みだす邪見が看破されるまで、実践されなければならないのである。
同じく、無常をば、相続していると誤解して、(+対象に)執着する事を看破する事や、身体の姿勢を観照して、苦を看破する事と同じように、堅実もまた身・心を観照する事を通して、<それ>は<それ>であると、知る事なのである。
堅実(+という誤解)から生じる邪見を破り除く事は、第一番目の階智を、証得したのだと言える。
それは名色分別智(すなわち、見清浄ーー清浄なる知見と内観)であって、もし第一番目の階智を証得していないのであれば、その後に控えるその他の階智を、成就する事は出来ない。
修行とは、三法印を隠蔽する所の因縁法を看破する事であり、すべての三法印を証得しなければならない、という事ではない。ただ、三法印の内のその中の一つの相を証得するだけでよいのである。
例えば、あなたが、無常を隠蔽する所の真相を看破したならば、あなたは、苦と無我を証得したのだと言えるのである。
(1-81につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>