「身念処」1-86
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1-12-2 縁起の法における各方面からの分析
我々は、7つの角度から、縁起の法を研究する事ができる:
例えば、因と縁の鎖、幾世代において、幾重にも重なる因果等等。
ここでは、その中の何種類かを研究する:
1、三世20行相(図1-4省略)
a)この模式では、20の要点があり、5つが過去の因:無明、行、愛、取、有である。
b)5つの現在の果:(結成)識、名色、六入、触、受。
c)5つは現在の因:愛、取、有、無明、行。
d)5つは未来の果:(結成)識、名色、六入、触、受。
注:(図1-4省略)
a)5つの過去の因は、我々の現在の存在(有)を決定する。というのも、
我々は、出世間の智慧を体験・証悟していないが故に。
故に、無明は、すべての結果の根本原因である。
無明によって世間の生活を送る時、我々は善と悪の業をなすが、それを行という。
例えば、もし、我々が サマタを修して禅定を成就したとしても、我々は、なお、世間において、行を造作しているのである(すなわち、善業を為している)。行の結果は、愛を導き至る。
愛が、益々強くなる時、取に変る;
我々は、ある種の物を欲しいと思うのは愛であり、それを所有した時、愛は取に変る。
取は、有を導き至る。
有には二種類ある:
業有ーー有(生命)の活動過程(過去世)と生有ーー結生の過程。
業有は、善または悪で、未来の(+生活の)良しあしを決定する。
生有は、新しい生命が展開する所の命運(+または運命)の過程を指す。
生有の良しあしは、業有の善悪による。
有は、業を造している事自体を言う。
というのも、どのような形式の有であろうとも、我々は、生死輪廻の内にあるが故に。
実相の法則は、すなわち縁起の法であり、また、業を造す事とは、すなわち業報でもあるーーまた、どのような人であっても、この結果から逃げたり、結果を変えたりする事はできない。
これは最も公平な、法則なのである。
b)過去の因から、5つの現在の果が生まれる。
そして、現在の果は、その生命が形成される所の、特徴を有する:例えば、人には人の特徴がある事等など。
c)5つの現在の因。
五つ目の現在の果(受)は、一番目の現在の因(愛)を導き到る。愛がある故に取、有があり、その後に無明、行があるが、ここでいう有は、<後有>の事であり、新しい生命を決定する。
この有の為に、四聖諦を体験・証悟することなく、再び無明に到る。
無明は、また(善・悪)の業を造作し、再び、行へと変化していく。
この一組の行は、あなたが、善か悪かの行為を造作する時、行と呼ばれる。
この一組の有の意味は、業がすでに造作されたことを意味する。
d)5つの未来の果。行の縁によりて(+結生)識あり。
後ろの四個は、現在世の身・心で、その上にこの5つの未来の果を加えると、合計20個の因果関係がある事が分かる。
この20個の因果関係は、一つの輪のように、最初もなければ、終わりもない。
しかし、仏陀は、主要な因(根源的な因)は、無明であると看破した。
(訳者注:hatenablogでは、図が作成できませんので、図1-4、図1-5、図1-6 は、省略させて頂きました)
(1-87につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>