南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~再び vipassanaについて    ~パーリ語マジック~

日本では、 vipassana という言葉が一人歩きをして、

非常に混乱しているように思います。

私たちが安般念(出入息の瞑想)をして、意識が少し深くなる時、例えば遍作定とか近行定とかの時点で、身体の色々な変化が<見えて>きたりします。

これまで、のんびり何も考えないで生きて来たけれど、身体ってこういう風に、じっとしていられない性質(無常・苦・無我)を持っている事が分かり始めます。

しかし、これは、無常・苦・無我の概念を<見ている>のですから、サマタ瞑想に属します。

中国語ではこれを、<覚知>と言い、観照=vipassana とは言いません。

安般念の修行が進んで、nimittaの光(禅相)が見える様になって、その光を身体内に引き込んで、己の内臓などを見る時(32身分の修行)、このレベルであってさえも、vipassana ではなくて、サマタ瞑想です。

「これは胃」「これは腸」と思いながら観察している時、それは<概念>から、出ていないからです。

Vipassana とは、色聚(原子より小さく、素粒子より大きい物質)の刹那生・滅を、映画を見る様に、心眼でみてとる事をいい、中国語では特に<観照>といいます。

その時、男女の別や、人間であるとか、ないとかの概念は吹っ飛んでしまいます。vipassanaによって、電気的なエネルギーの変転を<観>じる時、その時初めて、あなたは

<概念>のレベルを越えることが出来ます。

要約しますと、一度禅定に入り、禅定から出て来て、安止定辺りの意識で刹那定に入り、色聚の無常・苦・無我を、映画を見る様に<観照>しているなら vipassanaです。

心については、心法(心の縁起)が、「映画をみるように

<観>て取れたら」vipassana で、それ以外の、「認識の対象を知っただけ」なら、<覚知>です。

Vipassanaという言葉は、日本では、みなさんが勝手に意味付け・定義して使っているような気がしてなりません。

一度、vipassanaという言葉をやめて、

己は今、対象を

<覚知>しているのか、 それとも

<観照>しているのか・・・

自分自身に問うてみてはどうでしょうか?

(<パーリ語マジック>そろそろ卒業しませんか。)

補足:

覚知=概念で対象を認識・確認する事(心と脳の共同作業)。

観照・vipassana=禅相の光で対象を照らして、映画のように実相を観ずる事(観照する事)。心眼による直接認知。

 

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>