Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

rubyさんのコメントへの返信

rubyさんへ。

私のブログ<是誰庵のひとやすみ~再びvipassanaについて>をご閲覧の上、コメントを頂き、ありがとうございます。

私は20年前、緬甸(ミャンマー)のモーラミャインにあるパオ僧院本山で修行した時に、本山を抜け出してヤンゴンに出かけて、マハーシ系のお寺に行って、修行した事があります。

その時、マハーシでは、お腹の起伏、足の上げ下ろしを見るのだと教わりましたが、何分、私自身、ミャンマー語が出来ませんので(英語も苦手)、先方と、刹那定に関する議論をしたわけではありません。

その為、先に、私が知る限りのマハーシ瞑想は、日本で教えられているもの、と限定させて頂きます(私は、日本では、モーラミャインに出かける以前の1、2年の間、マハーシに打ち込んだ時期があります)。

まず、(日本の)マハーシ瞑想は、お腹の起伏を見て(気づいて)、それにラべリングしたり、足の上げ下ろしを見て(同上)、それにラべリングしたりします。

今までボンヤリ暮らしていた人が、マハーシ瞑想をすると、「おお、私の身体の様子がよく分かる」「おお、私の心の動きがよく分かる」と大変に感動します。

そして、それが 「仏陀がご自身で開発した vipassana という修法だ」と教わると、もうすっかり「仏陀の直々の教えに出会った」と感激するのです。

私もそうでしたから、よく分かります(笑)。

大きな問題は、(日本の)マハーシ瞑想では、「一旦、初禅~四禅に入り、そこから出て来て後に、深い刹那定で、諸法、究極法を観察をする」という修法は、考慮されていない事です。

マハーシ瞑想を実践された方ならお分かりになると思いますが、ラべリングして集中力を高めるといっても、到達できるのは遍作定か、遍作定に近い近行定止まりでしょう。ラべリングしながら、初禅~四禅には決して入れません。

この<遍作定レベルの意識>で観察する対象は、究極法ではなく、概念法です。故にサマタ瞑想になります。

上で述べました通り、本場緬甸(ミャンマー)で、マハーシの指導者が「我々がやっているのはサマタです」と言っているのか、「我々がやっているのはvipassanaです」と言っているのかは(私がミャンマー語が出来ない為)直に確認しておりませんのでよく分かりませんが、日本では、「ラべリングしながら観察するのは、vipassanaである」と教えていると、私は理解しています。

さて、ではパオ・セヤドーはどう言っているか?

私が翻訳した『智慧の光』の冒頭、パオ・セヤドーは、「初禅~四禅に一度も入らないで、いきなり行う<観察瞑想>を、<刹那定で観察しているのだ>と言う人がいるが、それは正定ではない。正定ではないのに、(遍作定レベルの刹那定で)悟れると教えるのは、仏陀の教え、八聖道に反している」と述べています。

これは、名ざしはしていませんが、初禅~四禅に一度も入らずに、遍作定レベルでラべリングしながら、身・心の現象を観察するのを「『刹那定』で観察している」「vipassanaしている」と主張している人たちを、批判したものです。

一旦初禅~四禅に入り、そこから出て来て、深い定(安止定等)を保ちつつ、そのまま刹那定に移行して、色聚と心法を観察するのと、一度も初禅~四禅に入らないまま、ラべリングで遍作定を保ちつつ、観察するのは、意識のレベルも、見ている内容も全く異なります。

緬甸(ミャンマー)の孫倫セヤドーも「ラべリングしながら、概念をもって観察していては決して悟れない」と著書の中で言っています(孫倫セヤドーの意見は、ブログに翻訳して載せてあります。<孫倫>で検索してみて下さい)。

私の理解では、マハーシ瞑想(の初歩段階)は、サマタ瞑想であり、vipassanaではないと思います。ただし、マハーシ瞑想で、相当高度のサマタ瞑想が出来るようになった後、ラべリングを外して禅定に入る修法があって、それは個別に実践しているが、公開はしていない、というのであれば、マハーシ瞑想から入って、いずれはvipassana の段階に進むというのは、システムとしてはありえます。

ただ、マハーシがそういうシステムを採用しているのであれば、なぜ、パオ・セヤドーが「正定に入らない刹那定は、悟れない」と、自著でもって公開批判するのか?という疑問が残ります。

菩提樹文庫>にパオ・セヤドー著『智慧の光』が掲載されていますので、拙訳ではありますが<第一章>冒頭部分を、是非ご一読下さい。

追補:いちども禅定(初禅~四禅)に入らないで行う観察瞑想は、それを<刹那定>と呼んでも、なんと呼んでも、サマタ瞑想(概念上の瞑想)です。(ただし、純観行者は、禅定に入らないまま vipassanaはできます。純観行者の vipassanaは、初禅に限りなく近い近行定に入っての vipassanaです。)

nimittaが生じた後、その光を利用して、色聚の転変~無常・苦・無我を映画のように直接観じて(観照して)初めて、vipassanaと言うのです。

尚、純観行者は、禅定の修行をせず、初禅~四禅に入らなくても阿羅漢になれますが、ラべリングを通して観察する方法で悟るのではなくて、四界分別観の修習を通して悟ります。

四界の、合計12種類の特徴を、身体の頭から足の先まで観察して、やがて集中力が増して、身体が透明に見えるようになった時、色聚の無常・苦・無我を観察するものです。純観行者に必要なのは、限りなく初禅に近い近行定(で保証された刹那定)です。

純観行者に関しては、同じく『智慧の光』第一章をご参照下さい。

       <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>