先日、IT上で、台湾の仏教団体のWebを見ていましたら、<捨覚支>に関する説明が、載っていました。
ざっと申し上げますと、捨覚支の実践とは、
社会で起こっている色々な出来事は、結局は、己自身が5根を通して情報を受け取って、ああでもない、こうでもないと言っている訳で、己の心を汚す情報は、己自身で捨てなければならない、というものです(ただし、社会生活を営む上で、必要な情報もありますから、それは智慧でもって分別を。「考えるな」と言われると、本当に考えない人がいて、これはただの馬鹿。)
ただ、捨覚支が7覚支の最後に来るのは、それを身につけるのが、相当に難しいから、だそうです。
また、残念ながら、定が深くなって、色法、名法が見えても(観じても)、それだけでは、己の人格は完成しないのだそうです。
何度も何度も色法の無常・苦・無我、名法の無常・苦・無我を観じつつ、その上で(同時進行で)、捨覚支も実践する。
これまで心に、捨の習慣がなかった者は、それこそ何度も何度も繰り返し、己において、捨の訓練をしなければならない。
それは、脳内シナプスの癖を、良い方へ、善なるものへと、変化させるほどの訓練を積まねばならない、との事
(S尊者談)。
ローマは一日にしてならず。
地道な訓練だけが、ものを言う。