世の中に、<悟った僧は、何をしても許される>という
一種の誤解が、広まっているようです。
これは特に密教で言われ、また大乗でも言われます。
密教の場合、20年前に事件を起こした、オ〇ム真理教の主張などがそうでしょう。
大乗(中国)では、悟った僧侶は酒を飲んでも、肉を食べても穢れない(中国大乗は菜食)といい、実際に信徒を前に、そのように振る舞う僧侶もいたようですが、近年、「それは行き過ぎだ」と、批判されるようになりました。
<悟った僧は、何をしても許される>とは、<悟った僧は、どのような場面においても、忍辱ができる>というダンマが、誤って伝えられたものではないでしょうか?
座禅・瞑想によって、ミクロのレベルでの五蘊は、自分のコントロールの下にない(諸法無我)と悟った僧は、ただ業の生・滅を観じているだけなので、動揺する事がない(業は自然現象であり、ゆえに業の生起するのを防ぐ事もできないし、滅するのを防ぐ事もできない。但し、己の行いによって、善業を増やし、悪業を減らす事はできる)。
悟った僧は、何をしても許される・・・のではなくて、悟った僧は、どのような場面においても心は開かれていて、問題が起きても責任転嫁する事なく、恐れも無く、怒りも無く・・・与えられた責務を果たし、常に微笑の中にいる。
悟った僧は、衆生の為に、戒と律の受持を真摯に実践されていながら、それが自然体に見えるのだと思います(悟ったからといって、誰も業から逃げる事はできない。過去に為した悪業があなたに戻ってきた時、悟った人間は、それを潔く受けとめる勇気がある、という事なのでしょう)。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>