<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
2-2-2 見解
1)《清浄道論》では、座る色身を観照する事に、熱心に精進するならば、修行者は、非常に早く智慧でもって、心を見ることができる、と述べている。
しかし、(+そのような成果を得るために)身・心を、同時に観照する必要は無い。
2)《清浄道論》はまた、身体の姿勢には、苦が隠されていると述べている。
というのも、我々は、姿勢の観照に注意を払わず、その為、新しい姿勢の中に、古い姿勢が残した所の苦に注意を払う事がない。
上記の事は、我々が通常、姿勢を転換する時に、如理作意を伴わない為であって、(+もし我々に如理作意があるならば)如理作意は我々をして、姿勢の転換は、苦を治する為である事を、知らせてくれる。(1-11節「三法印の因縁法の隠匿」を参照の事)。
こうした事から、我々は、座る色身等の姿勢の内に、苦を見る必要がある。我々は<今・ここ>に生きており、故に、苦を体験する時、貪と瞋恚も断じ除くことができる。
3)四つの姿勢を観照する以外に、修行者は、その他の事柄を為している時、たとえば、家事など等、その時もまた、如理作意でもって、これらの事(+修行)ができる。
これらの事柄は、ただ、苦を治するために行っているのだという事に気づき、観照しなければならない。
(2-16につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>