南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵のひとやすみ~ごまかさな仏教~その2

佐々木閑先生と宮崎哲弥氏の対談本

『ごまかさない仏教』

なかなか面白かったです。

ただ一つ、ちょっと「???」と思う箇所があり、本日、読み直してみましたら、やっぱり「???」でしたので、一言申し上げます・・・ごまかさない為に~笑。

p173、文章を引用してみます。

<宮崎「私が特に興味深いと思うのは、初期仏教の瞑想の中に、言語におけるシニフィアンとシエフィエ、つまり言語表現と指示対象とを分離する観法がある事。

これは生まれて以来刷り込まれてきた言語体制を解体する心の訓練です。そうして得られた智慧を「名色分離智」と呼ぶ。

この実践面での指導では、ミャンマー上座部仏教のマハーシ・サヤドー長老による手ほどきが非常に有効と思われます。」>

私たちは、幼い頃に言葉を覚えます。

これは牛、これは花と言われて、幼子は「大人が言うのだから、そうなのだろう」思って、言葉を覚えていきます。

言葉を覚えなければ生活できないので、致し方ない事なのですが、形容詞は微妙です。

「美しい」「醜い」「悲しい」「楽しい」等は曲者で、人は成長する程に、これらが単なる施設の概念(人によって作られた概念)ではなく、そう形容されるものが実際に存在する、と思い込んでしまう。

例えば「美しい人」「醜い人」「背の高い人」「背の低い人」等(勿論、名詞も、人を誤認に誘導する、曲者ではありますが)。

この種の既成概念を打破し、言語体制を解体するのが、仏教の眼目の一つだ、と宮崎氏は主張する。

私は宮崎氏の「言葉による錯覚から目覚めよ」という主張に賛成ですが、宮崎氏が、言語体制を解体する事によって得られる智慧、言葉の錯覚から目覚めた智慧を「名色分離智」と呼んでいるのは、何かの誤解だと思います。

パオ僧院で教えられているパオ式修法で修行すると、nimittaが得られるほどの、深い定を求められます。

nimittaが得られれば、次に、初禅を得る訓練をします。

初禅とは、心臓にある心基を観じ、心基から生起するチッタ(心・心所、五禅支)を明確にとらえ、観ずる事です。

五禅支とは尋・伺・喜・楽・一境性の事で、初禅に入った修行者は、心が、この五つの状況にある事を(手に取るように)如実に観ずる事ができます。

この時修行者は、チッタ(名)と身体(色蘊)は別々の物である、と認識する事が出来ます。

心臓にある心基からチッタが生じるのを見れば(観ずれば)、チッタは身体ではないし、身体はチッタではない事が知れるからです。

これが<名色分離智>です。

初心者の修行方法として、己の身・心に生起する色々な現象・対象に、ラべリングして確認するマハーシ式瞑想は、集中力を養う為であり、それは一定程度の効果はあります。

しかし、現在、多くのSayādaw(パオ・セヤドー含む)、ミャンマーやタイの瞑想指導者(Sunlin禅師、等)が、現象・対象に名前をつける修行方法、すなわちラべリング瞑想法に、反対しています。

己の身・心に生じる現象や対象に名前を付ける、ラべリングする・・・この種の修行を続けていると、修行者は、結局いつまで経っても概念から離れる事はない・・・イヤ、概念に纏わり付かれて、非常に困った状況になるのです。

私もこの瞑想法(マハーシ式)に取り組んだ経験がありますが、20年経った今においても、ラべリングがその有効性を超えて、定に入る足枷になるのを、日々実感しています。

さて、修行方法に関する批判は、本題ではありませんので横に置くとして、本書p173で一番問題なのは、宮崎氏が、言葉と自分を切り離す訓練によって得た智慧を「名色分離智」と言っている事です。

「名色分離智」は、「ナーマ・ルーパ分離智」とも言い、ナーマは名(心・心所)、ルーパは(身体)の事です。

我々の頭から既成概念を引っ剥がすのも大変な修行であり、それは否定しませんが、「名色分離智」の「名」を、言葉、名称、概念と理解されたのでしたら、それは誤認です。

パーリ語の「ナーマ(名)」は心(名蘊)の事で、「ルーパ(色)」は、身体(色蘊)の事です。

名色は、<言葉と身体>の事ではなく、<心(精神作用)と身体>の事です。この理法を更に深く理解されたい方は、パオ・セヤドー著『智慧の光』をご参照下さい。

(ブログでこのような意見を発表した事は、近日中に、著者にお知らせする予定です)。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>